ラベル Essays and reports の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Essays and reports の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年10月1日水曜日

機能的な伝統工芸品

伝統工芸は機能的であらねばならない

伝統産業の衰退が言われて久しい。京都で働く私も伝統産業に触れる機会が多いが、いい話をこれっぽっちも聞かない。なぜなのか。

中には元気に仕事をしているところもあるが、それは限定的だ。そういったところは、創意工夫を持って新しい商品を世に出したり、海外で評判になり認められるところが中心である。この差は何か。

最近気づいたのは、伝統工芸品が便利でないという点だ。どちらかというと私たちが伝統工芸品に手を出すとき、それは美しさとか手間ひまかけた一点ものだとか言った点に着目する。とくに美しさという点だろう。高くてもその品物を手にしたいのは、プラスチック製の工業製品では得られない満足感があるからだ。
それにしても高すぎる。そして美しさにはトレンドがある。流行り廃りがある。私にはどんなに輪島塗がうつくしくてもどうしたって、iPhoneのほうが魅力的だ。

伝統産業はいつから機能性をないがしろにするようになったのだろうか。機能が美をもたらすのではなく、美が機能のようになってしまっている。確かに美という機能もあるかもしれないが、アートの世界で安寧してしまうには量産的であり、物足りない。

伝統工芸品はあくまで生活の中の一機能を担うべき存在だ。官能的であろうとするあまり、機能的な側面を失ってはしないか。たしかに和服は美しい、それは最大の魅力ではある。しかし、着にくい動きにくい服を日常に使おうとする人はいなくなり、その美は次第に色あせてしまうだろう。


私は伝統工芸の機能性に注目したい。技術とは機能であるべきだ。機能性をもたらさない技術は廃れていくしかない。逆に、機能をもたらす技術は、時代がどう変遷しても生き残るだろう。

2014年9月21日日曜日

TEDxKyotoに参加して

TEDxは「TED Talkの理念に共感した有志によるイベント」ということで、ローカルな手作り感あふれる企画なのかと勝手に思っていましたが、今日参加してそのクオリティの高さに感嘆するばかりでした。イベントの運営もそうですし、壇上にあがったスピーカーの方々もそれぞれにエッジが効いていて気づきがありました。今日得た気づきのいくつかをまとめておこうと思います。

(1)心を動かすスピーチの共通性
全体を通して非常に満足感の高いイベントだったが、その要因は2番目のスピーカーであったガー・レイノルズのトークに集約されているように思う。聴衆の側に立って、構想を練り上げ、はっきりとしたテーマを設定し、五感に訴えながら挑戦や変化、驚きを演出する。人の心を動かすスピーチやイベントはこうしたストーリーメイキングが入念になされている。スターウォーズのネタが聴衆を沸かせていたが、そのときジョセフ・キャンベルの「神話の力」を思い出した。「神話」=「人々に語り継がれるストーリー」にはいくつかの共通性がある。表層は様々に異なっていたとしても、人が心動かされるのは、挑戦、挫折からの復活、苦難の克服、弱気を助け強気をくじく勇気、自然への敬愛、愛と調和、などだ。TEDのイベントはそれぞれのスピーチがそうした要素を備えているだけでなく、全体としてもそうした要素によって成り立っている。だからこそ参加者は満たされた気持ちになるのだろう。

(2)ストーリーの力
数々のスピーチの中でもひときわストーリーの力が際立っていたのは、女優サヘル・ローズである。サヘルのストーリーには感動させられた。彼女が女優として人前で話し訴えかけることに長けていることもあったが、彼女のスピーチは養護施設で幼少期を過ごした自分のドラマチックな生い立ちから始まり、幾多の苦難を乗り越えてきた経験をもとに、養母から受け継いだ人の為に尽くそうとする奉仕、感謝と慈愛の精神に満ちていて、自然と心動かされる内容だった。彼女のメッセージはシンプルだ、親(大人)の愛情は子供にとって素晴らしいかけがえのないものであること、そしてその愛情を受けることが出来ない子供がたくさんいるということだ。彼女はスピーチの終盤で「サヘル・ローズ・ハウス」を作りたい、という彼女の夢を語る。人は安心を得られてはじめて夢を持つことができる、と彼女は語る。親の愛情を満足に受けられない子供達の為に子供達が安心して過ごせる「イエ」を用意して、夢を持たせてあげたい。彼女の想いはシンプルでありかつ自身の経験に根ざす強力なものだ。

(3)職人と技術の可能性
TEDxKyotoには日本の職人が多く壇上にあがった。井上は一流の鮨職人だ。彼は長年の修行で培った確かな技術に裏打ちされて、それにクリエイティビティを添える。彼が目指すのは、鮨とアートの融合であり、ますますグローバルに広まる鮨の新たな可能性の追求だ。荒川は京都の黒染め職人である。井上の鮨が世界に益々ポピュラーになっているのに対し、荒川の黒染めは急速に縮小する日本の伝統着物文化の危機の渦中にある。その状況下で荒川は、染め技術を応用したアパレルとのコラボや古着の黒染めプロジェクトを通じて、新たな形での黒染め技術の継承を目指す。急速に需要が縮小する伝統産業の中で、新たな可能性を見いだそうとする試みは、桶職人の中川も同じだ。中川は親から子へと伝承していく技術に、コンピューターを用いた新たな設計を加えることで、ワインボトルクーラー等のこれまでにない形の桶を生み出した。彼ら職人は、自身の培った確かな技術を守りつつも、創意工夫を加えることで、その技術の新たな可能性を模索している点で共通している。いままでもこれからも、素晴らしい技術は、職人から職人への継承とそれぞれの職人による創意工夫によって次の世代へと受け継がれるものなのである。

(4)平和な世界への試み
平和な世界を築こうとする多くの試みもこのTEDxKyotoでは紹介された。宗教の立場からは妙心寺退蔵院禅僧の松山のスピーチが印象的だった。宗教は人々に安心感を与える役割がある、にもかかわらず世界にはいまだに多くの宗教がいがみあっている、おかしいのではないか、という彼の問題意識は示唆に富んでいる。日本人は宗教観に乏しいと言われる、例えばクリスマス、除夜の鐘、初詣と切り出すお決まりのネタを持ち出しながらも、日本の仏教徒として、そうした日本人の独特な宗教観に、世界の平和と調和の可能性を見いだす彼の洞察はとても説得力に満ちている。宗教間駅伝の試みも含め、ユーモアにあふれ知的で、宗教家かくあるべしだと感じた内容だった。芸術は人類共通の感動をもたらす。そうした芸術の立場から平和を訴えるのが、冒頭に登場したシンガーソングライターの涼恵や芸術家のKya Kimだ。涼恵は神楽の音楽や舞を世界の人に感銘をもたらす独自の歌へと深化させた。Kimのピースマスクプロジェクトは、国境やジェンダーの垣根を越えて信頼と平和を訴えるシンボルを生み出す。彼らに共通するのは、人類共通の願いである平和、共存共栄への願いを目の前に具体的な形として提示したことにある。

(5)日本の可能性
日本と世界という対比を通じて日本の可能性を紹介してくれたスピーカーもいた。イエスパー・コールが紹介したのは彼が28年を過ごしている日本そのものだ。様々な経済データに目を向けながらコールは、持ち前の楽観さでもって、日本の明るい将来を展望する。多くの日本人にとって日本の将来は自分事であって得てして悲観的になりがちである。コールは日本を投資対象として、世界の投資家に紹介する立場であり、そうした立ち位置が日本の将来に新たなスポットを当てたのだろう。BMX世界チャンピオンである内野もそうした日本の可能性を具現化させた日本人である。競技者として道を究めた彼は、世界の舞台で活躍する日本人そのものであり、今までスポットライトが当たってきていなかった分野での日本や日本人の可能性を提示してくれた。

(6)表現することの喜び
BMXの内野もそうだが、自分の好きなことを追求する人の明るい表情も印象的だった。なかでも、建築家の手塚の明るさは際立っていた。手塚は自身の手がけた幼稚園の設計を通じて、子供の成長に資する環境についての自身の考えや想いを存分に表現する。写真家のエベレット・ケネディ・ブラウン、発明家のシーザー原田、ゲーム開発者の富永、ギタリストの安達はそれぞれに持ち前のクリエイティビティ、創意工夫の連続により、写真や発明物、ゲームや曲によって自分自身を表現していた。彼ら表現者に共通していたのは自然への敬愛と優しい視線である。写真家のブラウンは、自然の中にあるメモリーを写真に表現しようと試みる。シーザー原田は、人類が環境に与えた悪影響に問題意識を持ちそれをテクノロジーで解決しようと試みる。安達が彼女の「パンゲア」問いう曲で表現したのは地球の歴史だ。彼らのスピーチやパフォーマンスには、自然への敬愛と表現することの喜びがあふれていた。

おわりに
会場は、京都外大の森田講堂が使われた。ブレークタイム、ランチタイムには日本茶やコーヒー、茶菓子がふるまわれ、また参加者を飽きさせないようにスポンサーの紹介ブースがおかれていた。特徴的なのは、京都という土地柄、日本的・伝統的な文化を尊重し、着物姿の女性や、茶の湯が至る所でみられたことだ。さらにTEDの特徴か、外国人の参加者の姿が非常に目立った。中には流暢な日本語を駆使して抹茶を立てる方もいて、日本人・外国人問わず、日本や京都の文化や価値観に共感する方々がこのイベントを支えているのだと感じた。アフターパーティでは、とても美味しい食事とお酒が振る舞われ、京都ならではの「おもてなし」を感じることが出来た。全体の共通テーマは「温故知新」であり、伝統的なことや今まで行ってきたことを継承しながら、新たな可能性を模索する姿勢が随所に感じられ、多くの刺激を受けたイベントだった。


2013年1月26日土曜日

シネマトークカフェ in 京都「シッコ」


フリージャーナリストである岩上安身氏(http://iwj.co.jp)が設立したIWJ(Independent Web Journal)企画の「シネマトークカフェin京都」に参加してきた。企画は、映画「シッコ」を鑑賞後、岩上氏のアフタートークという内容。この映画の鑑賞は2回目であったが、見応えのある内容には変わりなかった。

トークテーマは、医療・保険問題に絡めながらもあくまでTPP批判だった。このとりあわせは意外だったが、ホームページからその着眼点を引用しておこう。(http://iwj.co.jp/info/whatsnew/?p=18668)

----

先日、正式に日本の交渉参加が決まったTPPは、
日本人の生活のありとあらゆる面に影響を及ぼす可能性があります。
100円の牛丼に喜んでいる間に、労働賃金はさらに下がり、
失業が増大、デフレはさらに進み、格差が広がるのではないかと危惧されています。
農水省によると、TPPによって、現在約40%程度の食糧自給率は
14%まで低下してしまうと予測されています。
懸念されるのは、医療の問題です。
公的医療保険がカバーする範囲が段階的に縮小され、
医療の二極化が起こるのではないかとの指摘もあります。
富裕層向けには手厚い医療サービスが提供されるが、
民間保険に加入できない低所得者は、
平等に医療を受けることが困難になるかもしれません。
TPPが目指すのは、グローバル資本の制度のために、
日本国内の諸制度を米国式に改造してゆくこと。
公的医療保険がまともに機能しない世界、それはまさに現在の米国の姿です。
マイケル・ムーア監督が米国の医療の実態を赤裸々に描いた
映画「シッコ」の世界は、近未来の日本の姿かもしれません。
----
米国の医療事情の「惨状」を次々と紹介し、それをそのままTPP批判につなげていくあたりは、いささか強引さを感じたものの、岩上氏のアフタートークを聞いていて、自分がTPPに無自覚に賛成していたということに気づかされた。

自分は周りの友人と同じく「総論としてTPP参加には賛成」という立場だ。自由貿易がもたらす果実を信じているし、TPP参加が米国式制度の踏襲であるとは考えていない。岩上氏の話し振りは説得力があったものの、その主張には賛成しかねた。

しかし、同時に岩上氏の話を聞いて、TPP各論について自分が無知であることに気づかされた。そもそも、交渉はクローズドであるから一般市民が各論について知ること自体困難である。しかし、具体的にどのような内容で取り決められるかも知らずに、その方向性だけでTPP賛成と表明するのは、あまりにも無自覚な態度であった。

「もっと勉強しなければなあ」と思った次第。無防備に話を聞いていると、ちょっと専門的な話題が出てきたばかりに、「やっぱりアブナイのだなTPP反対」となってしまうし、一方で聞く耳持たず「自由は素晴らしいTPP賛成」となるのも無自覚すぎる。人の話を聞く時は、自分の中に判断軸となる知識、価値観、信条を持っていないといけない。

2012年10月27日土曜日

アーミテージ&ナイ白熱討論


アーミテージ&ナイの討論会(http://www.nikkei-events.jp/hakunetsu/)に参加してきた所見。



1.      日本が米中の関係に関心を持っているのと同様に、米国も日中関係をはじめとする東アジアのパワーバランスに大きな関心を寄せている。日中関係においては、米国が影響力の低下した日本離れをするのではないかと憂慮する向きもあるようだが、今回の討論会において米国は明確に日本寄りのスタンスを示しているように私の眼には映った。一方でお互いが米国の同盟国である日韓関係では明言を避けており、やはり民主主義という価値観を共有する日本は米国の対立軸とはなり得ず、一方で、共産主義を堅持する中国は、どんなに経済的に力をつけようとも米国のカウンターパートである。

2.      米国の冷静な視点は、ヒートアップしがちな東アジアの領土問題を考える上で三角測量として有効である。今般の緊迫化においても、米国は静観するにとどまらず、非公式に両氏を日本と中国に送るなど実際のアクションを起こして事態の沈静化に努めているという意味で、ステークホルダーであり、彼らの見解は単なる第三者意見以上のものである。日中両国はおたがいが引くに引けない状況に陥っており、事態の打開のためには、領土問題に触れないというネガティブな対応に加え、米国など第三者を交えた協同管理が一つわずかに希望の持てる選択肢であろう。

3.      ナイ教授は、ソフトパワーの観点から明確に首相の靖国参拝を批判していた。戦没者の鎮魂は各国に任せるべきだという意見が多い中、彼のはっきりとした物言いは印象的だった。しかし、昨今中国や韓国で盛んに喧伝される日本の右傾化懸念については、明確に否定している。ナイ教授の主張は現実的であり、東アジア外交にマイナスになるだけの靖国参拝については批判を繰り返していた。

4.      日本の核保有の可能性については、対アジアのみならず、日米同盟にも悪い影響を与えるとして疑問符をつけている。NPTの枠組みを多大なる成功と評価しており、日本の核武装はNPTの枠組みを踏み外すものだからだ。会場の意見は、日本は核武装すべきでないという意見が大半を占めたが、領土問題を巡る中韓政府の先鋭化は、国内の強硬意見を後押しするもので懸念される。

5.      米国の強みは、両氏のように十全たる政治経験を積みつつも、政府以外の立場から発言し、外交に影響力を与えることのできる人材の豊富さにあると認識。まさにスマートパワーを体現している。彼らの意見は、米国の本音である一方で第三者としての意見である。「本音と建前」は日本文化の象徴として有名だが、米国外交も匠にこの本音と建前を使い分けているように感じられた。その背景には、「回転ドア」とも評される人材の流動性が確保されている政治制度、人材の豊富さがある。

6.      日本にも個人として影響力のある人物や政治家はいるが、外交となるとパーティや表敬に終始している印象。ロムニー陣営の副大統領候補ポール・ライアン氏のように、自らのポリシーや政策案をレポートのように明確に示す人は、米国政治の世界で評価される印象。両氏も対日政策提言をまとめた第三次アーミテージ・ナイレポートがあり、そのレポートの存在が彼らが単なる表敬でない何らかのメッセージを伝えにきているという強い印象につながる。そしてその本音は、社交辞令が飛び交う外交的な建前の世界で自らのメッセージを伝える賢い手段となる。

7.      両氏の印象は、ナイ教授がいかにもリベラル派でハーバードの先生といったいでたちである一方、アーミテージ氏は巨漢で隆々の胸筋がいかつい。これで共和党の穏健派というから穏健という響きとのギャップがあった。人はすぐ人のことを肩書きや派閥で判断しがちだが、民主党と共和党と異なる政党に所属している両氏の意見は大方一致していた。また、民主党政権が両氏を派遣した点は政党を超えて識者を活用しようとするオバマ政権の意図が感じられ意外であった。

8.      政治主導と官僚機構の質問に対し、官僚機構はwisdomであり、「過去になにがおこったかのライブラリー」である、という言葉は印象的であった。彼らが法律や政令を作成するとき、最も大事にするのは「前例」である。官僚機構とは日本国政府の膨大な歴史的資料を、現在そして未来に生かす組織である。膨大な積み重ねの上に今がある。それを扱うのは知性である。いろいろな批判があるにせよ、その点は理解しなくてはならない。そして必要なのは新しい知恵や工夫をもたらす人を中にいれることだ、という指摘にも納得。官僚機構の知性を良く理解していて、もし問題があるとすれば、それをコントロールする大臣にあるという。

2012年10月13日土曜日

IMF世銀総会レポート






IMF世銀の年次総会(http://www.imf-wb.2012tokyo.mof.go.jp/jp/index.html)が日本で48年ぶりに開催された。ビジターとして参加する機会があったので、総会の場で感じたことを共有したい。尚、参加とはいえ「見物」に近いものであったため、文章の内容が表面的な記述にとどまっていることについて予めお断りしておきたい。


1. 国際会議という「お祭り」
国際会議は「お祭り」のようなものだ。開催期間中、東京、特に有楽町から日比谷にかけてのエリアはお祭り騒ぎのような状況だった。普段とは違った雰囲気になる。この会議に参加するために世界中から人が集まるのだから当然のことである。お祭りのようなワクワク感、高揚感、そして終わりがある。お祭りの高揚感はなぜ起こるかというと、あの一体感だ。一つの音楽、統一された雰囲気、皆同じ格好になり、同じことをする。今回の総会においても、世界中の様々なセクターを代表する人々が集まり共通の課題について考え話し合う、そうした一体感が醸成されている。世界の課題に取り組む一員であるという意識を一人一人が持つ。

2. 世界で共有される課題
議論されていることは非常にベーシックである。誰もが本質的な論点に頭を悩ませている。つまり日常の職場や生活で直面する課題がすなわち世界で共有される課題なのだ。それは国や地域、集団、個人によって課題である場合もあればない場合もあるだろうが、人間が直面する課題には共通項がある。

3. 会いたい人に会えることの貴重さ
国際会議の実際的な利点は、会いたい人に会える可能性である。同じホテルに滞在していれば、いざとなればすぐ顔を突き合わせて会話ができる。ホテルのロビーでたまたま出くわすこともある。どちらかというと、たまたま出くわすことの方が貴重である。日常の東京で、「たまたま」国際機関のトップや財務大臣に会う可能性はほぼゼロだが、総会の場ではそういったことがままにある。論文には目を通していたとか、前から注目していた、知り合いになりたいと思っていた人に会うことができるのだ。人は、実際に顔をあわせたか会話したかでその印象や距離感は全く異なってくる。どんな形であれ、実際に会うということは貴重なのだ。

 4. パネリストとコーディネーターの実力
私は、誰もが参加できる一連のセミナーに参加した。誰もが参加できるとはいえ、パネリストは豪華である。ああいった場では失敗は許されない。パネリストはだれもが周到に準備をしてきているように見受けられた。しかし、原稿を読んでいる人はほとんどいない。誰もが自分の頭の中に言いたいこと、言うべきことを叩き込んできている。むしろ、言いたいことがはっきりと自分の中にあるという感じだ。いつでもあのようにコメントを求められた場合、自分が考えていることを理路整然と述べられるように訓練と準備を積んでいるように見受けられた。コーディネーターの実力も、本物だ。なぜならパネリストが、与えられた質問に関して関連する用意した自分の意見を述べれば済むのに対して、コーディネーターは出だされた意見についてその場で理解し、次の議論へとつなげる必要があるからである。もちろんどんなことを言うかは想定があるかもしれないが、想定外であっても次へつなげる必要がある。またユーモアも必要だ。バラバラに発言するパネリストをうまくまとめて、一体感を出すことも仕事だ。国際舞台の場でのコーディネーターはかなりハードルの高い仕事だ。

5. ユーモアは注目される
ユーモアは大切だ。最初の場面で、ユーモアが言えるかどうか、ユーモアをもった人物は、印象に残るし、頭の回転の良さを印象づけられる。なにしろ好意を持たれる。ユーモアを準備することは難しいが、常に周りを観察して、気づくことがもたらす効果は大きい。なにしろ国際会議という場は緊張感もある一方で、堅苦しい話題と雰囲気に辟易することも多い。そうした時間におけるユーモアの効果は絶大である。


6. 英語というツール
やはり英語の必要性を痛感した。城島財務大臣のスピーチをパネルの場とレセプションの場で聞く機会があったが、準備不足もあってかどちらも日本語であった。私が聞いたセミナーでは唯一英語以外で話すスピーカーであった。確かに母国語は大事であるが、国際会議の場ではほとんどの人が英語を話し英語を理解する。パネルの聴衆には翻訳機を手元にもっていない人も多く、そうした人にとってはどんなに重要なことを述べていたとしても理解されない。また、レセプションの場では同時通訳がその場で英語にして通訳していたが、非常に間延びして感じられた。国を代表する人間であれば、せめて準備をしてきた原稿は英語で読めるようにしたい。

7. この人は何者か?は一分以内に評価される
国際会議の場では、いろいろなことを言わないことだ。あれこれ言ってしまうと印象に残らない。言いたいことは一つに絞る。一つのアイデア、プリンシパルを体現する。際会議の場では、特定の人と10分以上話すことはまずないだろう。せいぜい、お互い挨拶をして何者かを共有するくらいである。そうした場で、相手が何者かを評価するのはほぼ一瞬である。その一瞬にかけるのである。そのためには、見た目も含め多いに準備する必要があるだろう。最初の一分で、取るに足らない人物だと相手の評価されてしまえば次につながることはない。なお、体格の良さは重要だ。これは感覚的なことだが、堂々としていて大きい人の意見は重要に聞こえる。世界のトップは体格がしっかりしている人が多かった。


8. 学歴と共通項
世界のトップは高学歴だ。よく日本では「学歴主義」が問題とされることがあるが、世界こそ「学歴主義」である。学歴を追求する姿勢はなにも批判されるべきことではなく、世界がそのようなルールである以上それに従うことは問題ではない。問題とされるのは、学歴そのものではなく、学歴に拘泥するあまり実力を評価されないことだ。学歴が低いばかりに実力に秀でた人が評価されないことは問題だ。学歴は以下の場合にも役に立つ。国際会議の場のような、見知らぬ人がたくさん集まる場において、さて目の前の人が何者なのかという不安は常につきまとう。世界のトップにおいても同じことだ。たとえばアフリカの途上国の財務大臣だったとして、その人が何者なのか、実力があるのかないのか、信頼できるのかどうか、話すに足る人物かどうか、というのは分からない。そんなとき、名の知れたアメリカの大学出身であるという情報の信頼性は抜群である。少なくとも話すに足る人物だと言うことは分かってもらえる。人間は、得体の知れないものに対する不安を持っている。何かしらの共通項や知っていることを探そうとする。出身大学、趣味、スポーツは共通項を見つける手助けをしてくれる。

9. ロジを取りまとめるのも大事な能力
最後に、ロジを滞りなく取りまとめるという力は評価される。ただの雑用と思わず、それこそが会議を成功させる鍵と心得る。今回の国際会議も、主催者側では反省点はあるだろうが、細部まで気配りをすることがどんなに大変でかつ大切なことか、想像するにあまりないものがあった。ロジはすべてにつながる大切な仕事である。

2012年9月2日日曜日

高齢者が「支える」社会



街で元気な年配の方々をよく見かける。うちの両親も、祖父母にしても元気だ。年齢を重ねるにつれ、自由の利かない苦労もたくさんあるのだろうけれど、まだまだ頼りにしている自分がいる。何年後かに父が定年を迎えたら「おつかれさま、ゆっくり休んでね」ではなく、「おつかれさま、人生これからだね」と声をかけたいと思う。


高齢者が「支えられる」社会は終わった。これからは高齢者が「支えていく」社会でなければならない。知識と経験の豊富な年配の方々が社会の基盤を支えるのだ。

現行の社会保障制度は高度成長期に整備された。その時代の「高齢者」は人口比率も低く、かつ二度の大戦を経験した「功労者」であった。年金制度はそうした方々の功労に報いる側面があった。その時代の選択としては全うであっただろう。

しかし、現代は幾分趣が異なる。確かにこれから「高齢者」の年齢にさしかかる方々も、戦後の焼け野原からスタートした日本をこれほどの誇るべき立派な国にまで築き上げたという意味で功労者であることは違いない。しかし一方で、右肩上がりの希望あふれる時代を謳歌してきた世代であるとも言える。制度疲弊が指摘され、これから支給金額も下がると予想される社会保障制度の最大の恩恵を受けている世代であると言っても良い。

そうした高齢者の方々は果たして社会に「支えられる」立場であるだろうか?年長者を敬うことは当然のことだが、敬うことと援助する、保護することとは違う。私たち若い世代はまだまだ彼らから学ぶこと教わることがたくさんある。街を見渡せば、いきいきとした高齢者はたくさんいる。是非とも元気で健康な高齢者の方々におかれては、これからも社会を「支えていく」のだという気概を持ち、その豊富な知識と経験を生かして若い世代の育成に励んでいただきたい。

2012年3月25日日曜日

グラスルーツ・バックパッカー


やさと農場 in 茨城にて

この週末は、大学時代の仲間3人で「organic farm 暮らしの実験室」「やさと農場」(http://yasatofarm.exblog.jp/9559090/)を訪ねた。ソーセージ作りをした。のんびりとした農場の中で一日中遊んでとても幸せな気分だった。思わぬ出会いもあった。この農場は仲間の一人が何の関係もなく探し当てたのだが、農場のスタッフにもそれを支える人にもアイセックのメンバーがいたのだ。茨城県石岡市にも面白い試みをしている仲間がいたとは。そこで思い出したのが「グラスルーツバックパッカー」という言葉。下の文章は大学4年のときに書いたものだが、やさと農場にも、主体的に物事に取り組み、持続可能性を追求し、生き生きと活動している「グラスルーツバックパッカー」たちがいた。


社会を良くしようだとか、社会に何かしらのかたちで貢献したいと思うとき
「人が幸せに生きる」とはどういうことかを考える。
人の生き方は多様なあり方があるものだ。
ただ振り返って思うのは、内側から湧き出てくるような熱い想いに
突き動かされて行動しているときというのは幸せである。
誰しもそういう経験があるとは思うが自分を振り返れば、
中学、高校のときはテニスと文化祭活動だ。
一から自分で考え、自分の行動を決める。
高校を卒業してから過ごした浪人時代の一年間も充実したものだった。
それは、目的に向かって自分に必要なものは何で、そのためになにをすべきかを
自分自身で決めて行動したからである。
大学に入学して取り組んだアイセックにおいても、
ディレクターとして一年間の目標と行動計画を決め
それに向かって仲間とともに活動したから楽しかったのである。
人間はそうした、自助の心を持っているとき生き生きする。
たとえ人からの援助があったとしても、他人任せではなく
自分の人生を主体的に生きることが重要である。

私は事業経営に社会を変える強い可能性を感じている。
事業経営の最大の目的は、持続可能性の追求だと思っている。
事業が終わるときは、その会社が赤字になるとき、倒産するときであり、
そのときその事業は社会から必要とされていないということを意味する。
持続可能性を追求するとは、倒産させないことを単に意味するだけではない。
倒産させないということはすなわち、社会からの要請に応え続けるということである。
そうした事業経営の本質を表すのが財務諸表である。
損益計算書P/Lは、毎期の活動が社会の要請に応えているかを表す。
これで赤字が続くようだと、その事業は何かが足りない、何かを変えなければならない。
貸借対照表B/Sは、その事業の現在の状況を表す。
自己資本が積上っていれば、それは過去の経営の積み重ねの証であるし、
資産の構成や負債とのバランスは、その会社がいかなる形で事業を行っているかを
示している。
B/Sから生まれた売上がP/Lを通じて様々なステークホルダーに還元され、
最終的に利益がB/Sに積み上る。
そのキャッシュフローのダイナミクスが僕は好きだ。

僕はどんな事業も、持続可能性を追求しなければならないと思う。
その持続可能性とは金銭的な成功とは必ずしも一致しない。
しかし、「キャッシュフローが回っている」ことは何よりも大事である。

公共事業がしばし問題となるのは、その事業が投資に見合った事業なのか
持続可能性があるのかどうかが、不明瞭なまま、多額の国の財政が
投じられることがある点だ。
民間事業はその点は厳しい状況にある。
民間は事業が投資に見合わないと、収入がなくなる。
それは赤字を意味し、赤字はすぐに自分たちの身に降り掛かってくる。
民間事業はギブアンドテイクが基本である。
一方で、公共事業はその事業で収支をバランスする必要がないためしばし赤字である。
赤字を補填するだけの効果があるかどうかを、財務的な数字で測ることが難しい。

官は常に非対称の立場におかれている。
故に特権化する、腐敗する。
立場の非対称性がゆえにノーブレスオブリージュが求められる。
もしかしたら、官が相対化されていくのがこれからの世の中かもしれない。
地域分権が進み、行政サービスで政府を選ぶ時代になる。
地域と政府が分離した場合、ますますそうなる。

僕は官よりも民の立場で、
事業経営のプロフェッショナルとして、
社会に貢献する事業を世の中に送り出したい。

規模や利益の大小は関係ない。
社会の利益となる持続可能な事業であることが重要である。

小さくても、その事業に関わる人々全てが生き生きとしている状態。
それを生み出す企業家。
「グラスルーツ バックパッカー」

それは金儲けが目的ではないのは明らかだ。
明治の日本の礎を築いた経営者たち、
昭和の敗戦の焼け跡から世界第二位の経済大国へと日本をよみがえらせた経営者たち
彼らに非常に憧れる。

2012年1月21日土曜日

Self-helpからCo-help へ

ESG Season3 has started!!

孤高の努力家へ



 自助(Self-help)の精神が、学習の根幹にある。学習は自らの能力を高め、自らの将来のためにするものだ、という考えを私たちは知らず知らずのうちに身につけている。学校教育、受験、資格取得、様々な学習の場面で、およそ学習とは人様の目に触れないところで個人的に努力するもの、そこに美徳を感じる意識が私達にはあるのではないだろうか? 

 そのためか、私たちは特に同世代間で、シリアスな話題を持ち出すことにためらいがちだ。「勉強なんて全然していなくて」「自分は頭が悪いから」。謙虚さは美徳ではあるが、言い訳がましくも聞こえる逃げ口上を私たちは良く口にする。謙虚さを隠れ蓑に、人前で真剣な話題をすることから逃げていないだろうか?

 そんな人の中にも、個人的によく勉強し真剣に物事を考えている孤高の努力家が相当数いることも、私たちは知っている。周りに努力家の存在を感じるからこそ、人前で私たちはためらいがちなのだが、そのように傷つくのを恐れていつまでも殻に閉じこもっていてばかりでは、何も生まれない。

 私は、自助の精神を秘めた孤高の努力家を、謙虚さの殻から解放したいと考えている。仲間を集めお互いを認め合うことで学習を共有し、意見をぶつけ合うことで他者と対峙し、他者の価値観にふれることで自己を見つめ直し、協力して現実の課題に取り組む場をコーディネートするのである。

 21世紀に生きる私たちが直面する課題は、個人の努力だけでは立ち向かえない領域横断的なものばかりだ。特に日本社会は、世界のどの国も経験したことのない未知の状況下にある「課題先進国」である。三人寄れば文殊の知恵というように、真剣な個人が集まって、異なる意見をぶつけながら国際社会や日本社会を取り巻くさまざまな課題を議論する。政治家や学者など一部の人にゆだねるのではなく、草の根レベルでそういう場がもっとあってもよい。

自助から共助へ

 私が今取り組んでいる集まりは、自己を確立し、他者と協力して社会の課題に取り組もうと志を共有する個人のためにある。



From Self-help to Co-help



Spirit of self-help is the base of learning. We learn, without knowing it, that a study is to improve your ability by yourself for your future. In any scenes of learning, we have a conscious of virtue on a hidden effort of studying by individuals don’t we?

Because of the conscious, we often hesitate to talk serious issues with people around us, especially with the same generation. “I don’t study so much” “I am not smart” Modesty is a virtue of human, but we hide ourselves in modesty and escape from discussing serious issues in front of others don’t we?


Out of those people, we already know that there are a certain number of hard workers who are leaning and thinking serious issues individually. We hesitate to talk serious topics because we recognize that there are these respectable people around us but we couldn’t make anything by hesitating.

Our study group thinks to free those individuals from traps of modesty. We gather to share our learning, discuss with others to know their and our principles and corporate with them to tackle real issues in our society.

Living in the 21st century, we encounter crossover issues that we cannot solve by individuals. Especially Japan is a front-running country that faces unknown issues the world has never encountered. There should be more places for discussing global unknown issues by the people of strong will in a glass roots level.

From Self-help to Co-help

Our group is for the people who try to establish themselves and to make solutions to the unknown issues by cooperating with others.


2011年11月27日日曜日

マザーハウスというストーリー

ご存知の方も多いだろうが、私が心から応援している会社の一つにマザーハウスがある。

先週末、マザーハウスのバッグを衝動買いしてしまった。帰り道たまたま友人が働いているマザーハウスのお店に寄ったらその日発売のバックが置いてあった。


http://www.mother-house.jp/collection/brand/mens/menstoplist/mg11120.php


以前から旅行に使えるボストンバックが欲しいと思っていて、デザインも気に入ったので、普段は倹約と熟考を心がけているつもりが、思いがけずの購入だった。

皮革の質感にくわえ、持ち運びしやすそうな軽さ、間口の広い形状、中のルンギ生地のさりげなさ、旅行にちょうど良い大きさといった「デザイン」に惹かれたのは言うまでもない。だが思わず購入してしまった理由はそれだけではない。私が気に入っているのはなにより、このバックとマザーハウスという会社にまつわる「ストーリー」である。

代表の山口絵理子さんのことを知ったのは、彼女の著書「裸でも生きる」(講談社BIZ)からだったが、この本の衝撃はいまだに忘れられない。最初読み始めたとき、彼女は周りにもいるような、開発経済に興味を持つ普通の大学生に思えた。だがそれは読み進めていくうちに、全く違っていたことに気づいた。彼女は国際開発機関でのインターンに疑問を持ち、途上国の現実を知りたいがためバングラデシュに単身渡ったかと思うと、なんとそのまま現地の大学院に通いだした。そして「途上国から世界に通用するブランドをつくる。」という強い想いを胸に、バック製作を学び、現地で工場の裏切りに何度も遭遇しながらも、自らのデザインしたバックを生み出したのである。


詳しくは本書や当社Webサイトのメッセージ(http://www.mother-house.jp/company/message.php)に譲るが、彼女の情熱は別のこの言葉に集約されている。




「バッグは沢山見てきたけれど、そのバッグを買うことの深い意味を人に語れるバッグが欲しくて」(山口絵理子)


「夢を現実に落し込んでいくような会社をつくりたい。」(山口絵理子)




彼女がつくっているのは、「バック」だけではないのだ。それは、そのバックが形になるまでの悲喜こもごもの「ストーリー」であり、そうした「ストーリー」を現実のものにしていく「会社」である。
雑誌の記事かどこかで誰かがこのようなことを語っていた。


「客は、「ストーリー」を買っているのだ。客は、単にバッグを買いたいのではない。大げさに言えば、最貧国のアウェーの環境で戦い続ける、若きベンチャー社長のファイティングスピリットの「象徴」であるバッグをこの手にしたい。そんな気持ちが湧いてくるのではないか。」


まさにそうだと思う。私が衝動買いしたバックを手にした時の感覚も、まさにこのようなものだった。このバックにはバングラデシュの直営工場・マトリゴールの移転記念エンボスが押されている。代表の山口絵理子さんをはじめとして、日本のスタッフ、バングラデシュのスタッフとその家族、それを支えるたくさんの人々の想いが詰まったバックだ。マザーハウスのトップページに掲載されている現地マネージャー・モインさんの生き生きとした表情と揺るがぬ想いは感動的である。(http://www.mother-house.jp/


「物語はモノ語り」とは良く言ったもので、私たちの身の回りにあふれるモノには、マザーハウスのバックのように「ストーリー」が詰まっている。モノは、言葉を発しないために普段はなかなか気づくことがないが、改めてモノと向き合ってみるとそこには必ずそのモノの歴史があり、関わる人の想いがある。そうした決して言葉で発せられることのないモノのストーリーに耳を傾けることは、生活や人生をとても豊かなものにしてくれるだろう。高度な消費社会に生きる私たちは、そうしたストーリーに耳を傾ける心の持ちようをなくしてしまってはいないだろうか。


この会社の行っている事業は、近い将来の社会のあり方、人々の生き方を映し出しているのだという手応えを強く感じる。会社もストーリーを現実の形に落とし込んだひとつのモノである。語ることはつきないが、これからもいろいろと応援していきたい会社だ。




2011年10月30日日曜日

ブラック・スワン

 最近公開され話題になった映画「ブラック・スワン」は、ナタリー・ポートマン演じる無垢なバレリーナが、「白鳥の湖」のプリマに抜擢されたプレッシャーや人間関係に悩み、徐々に精神を壊していくスリリングな展開が衝撃的だったが、一般的な経済学理論を真っ向から否定するタレブの「ブラック・スワン」も映画に勝るとも劣らないスリリングな主張である。




 タレブの「ブラック・スワン」は、「理論」という言葉ではくくることのできない、思想であり哲学であり、世界を捉えるひとつの見方(認識論)である。それはきわめてシンプルなものだ。タレブの主張は、私達は統計的に有意「ではない」事象、つまり「まぐれ」のような滅多に起こらない事象を過小評価しすぎる、というもの。人間は、世界が何らかの構造を持ち、いつも通りで,理解可能なものだと見なす傾向がある。故に、滅多におこらない事象が起こった場合の影響は計り知れないものとなる。彼のこの主張が脚光を浴びたのは2007年からの世界金融危機においてであることは周知の通りだが、彼がしつこく批判するのは「ベル型カーブ」(正規分布)の世界認識であり、世界はより「ランダム性」「予測不可能性」「非線形性」であふれていると主張する。

 タレブの主張は古くて新しいものだ。古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、それを「無知の知」という言葉で表現した。人間はこの言葉を知っているにもかかわらず、いつの時代もハッと胸に突き刺さるのは、私達がいかに無知であるかを忘れてしまうかの証左である。人間は、年を重ねるに従って知識と経験を身につけ、あたかも自分達は世界をよく理解しているという錯覚に陥りがちだ。しかし、世界は私達の理解とは無関係に存在するものであり、本来的に測りしえないものだ。このことを再び痛感したのが、2011年未曾有の被害をもたらした東日本大震災であり、絶対安全と言われていた福島の原発事故である。私達は既知の知識や経験を過信し、傲り高ぶってはいなかっただろうかと感じざるを得ない。

 私達はタレブの主張から何を学ぶべきか。映画の「ブラック・スワン」では、主人公が現実とも幻覚とも分からない未知の状況へ追い込まれていく展開が観客を震え上がらせた。いつまた未知の事象に遭遇するか分からない状況は映画の世界に限らず、私達の生きる世界も同じである。さらに言えば、映画のような2時間で終幕という制限時間すらないのが現実の世界である。それは恐怖ではあるが、それが私達の生きる世界なのであり、そうした無作為な世界のあり方を謙虚に受け止める態度が最低限求められる態度である。その上で、奇しくも彼自身が著作のベストセラーから一躍有名となったように、予測不可能な結果から幸運をつかみ取る姿勢、これもまた彼の主張から私達が学びとりたい姿勢である。

2011年10月9日日曜日

Big society, not big government


中長期的に私達が取り組むべきissuesを取り上げるのはどうだろうか?


私たちの集まりを次のステップへと進めていくには、どんなことをしたら良いだろうか? 英国の政治家の話が参考になった。マーガレット・サッチャーは「小さな政府」構想を実現するため、自身が政権を担うずっと前より「小さな政府」に関する勉強会を続けていたそうだ。それが、彼女が首相として政策を矢継ぎ早に実現していくときに大変役に立っている。何事も大きなことを実現するためには、それなりの準備と時間がかかることを肝に銘じておくべきだ。今回は、一つのアイデアを提示したい。




(1)中長期的に私達が取り組むべきissuesを取り上げるのはどうだろうか?


理由
1)The Economistが取り上げる話題は単発的ではなく、時間をかけていくつかの話題を追っている姿勢が感じられるため、各々の記事を関連させて読み進めるべきである。


2)私達の勉強会でも、過去に取り上げたことのある話題が何度もディスカッション・トピックとして登場しており、一度整理してみたい。


3)今私達が取り組むべきは、世相を捕まえ世間の流行を追うことではなく、世界経済を低迷させ社会の安定を揺るがす構造的課題、中長期的に時間をかけて取り組むべき課題と向き合うことである。


4)私達が取り組むべき課題は、同世代に共通しており、産業横断的であり、かつ官民を問わない。勉強会の参加者は、高いモチベーションを持った20代を中心に、産業や官民を問わず集まっており、勉強会の趣旨からしてもこうした課題を取り上げるのにふさわしい場である。


(2)いかなるissueを取り上げるべきか?

「財政再建」=「人口減少社会の克服」
「経済成長」=「新産業、リーディング・カンパニーの育成」

「財政再建と経済成長の両立」→「大きな社会(the Big Society)の実現」

ソブリン・リスクが世界を震撼させている。財政の健全化は、今や先進国共通の課題となった。欧州はギリシャのデフォルト危機をはじめとする国家債務問題が共通通貨ユーロの行く末を暗くしている。米国債も同じくデフォルト寸前まで陥り格下げとなった。日本は世界第1位の国家債務残高を抱え、ますます進む高齢化と社会保障費の増大、動かない政治とリーダーシップの不在が先行きを不透明にしている。


抜本的なリストラクチャリングをもってしなければ、ソブリン・リスクはいつまでたっても私たちの生活を脅かし続ける。その目標や方策は各国によってそれぞれ異なるが、単なる数合わせの議論に終始するのではなく、より本質的な議論をすることが求められている。グローバル化が進展し、国家を超えた主体がテロリストとして人々の生活を脅かし、一方でグローバル企業が地球規模での事業展開を加速させ人々の生活を豊かにする中で、国家の位置づけが改めて問い直されている。私たちは国家にいかなる役割を期待し、また期待しないのかを議論することこそ財政健全化の第一歩である。


財政再建という課題を背負った先進国が、同様に頭を悩ませているのが経済成長の実現である。人口が頭打ちとなり社会が成熟期を迎える中、いかにして新産業を育成し、次世代を牽引するリーディング・カンパニーを輩出するか。社会の新陳代謝を促して活気をもたらし、人々が健康で文化的な生活を送ることができるよう雇用を生むことが経済成長の主眼であろう。経済成長を実現し、明日の社会を形作っていくのは私たちの世代の責務である。


英国で2010年政権の座に就いたキャメロン首相率いる保守党の「大きな社会」構想は、上記の課題と向き合い、次の社会を見つめる上で参考になるだろう。

2011年6月19日日曜日

六本木勉強会


勉強会ひとまずの終止符




 同期の勉強会が挫折しかけている。いやもうすでに挫折したと言ってもいいかも知れない。4人で去年の11月から始めた勉強会、今まで月1〜2回開催で順調にやってきた。回を重ねるにつれ、この半年間の間で劇的におかれている状況が変わってきた。新人として支社に配属された直後の10月、まだ格付の何たるかも分からず、現物の開け閉めに追われる日々、私たちはもっと財務の勉強をしたいと心から感じていた。折しも研修では財務分析に時間が割かれ、短いながらも同期と議論を交わし「面白い」と素直に思った。それから半年、私たちは4人で集まり、計8回にわたって勉強会を続けてきた。その間すでに一人はRMとして何社もの取引先を担当し、私も課内で欠かせない存在としてなりつつあるなど勉強会の内容がますます日常業務に身近なものになりつつある。

 しかしながら、そのような状況でますます財務や市場動向に関心が向くメンバーがいる一方で、そうでないメンバーもおりそれぞれの方向性が揺らぎ始めた。発案者である私自身としても、この勉強会に素直に注力してきたとは言いがたく反省する点も多々ある。ここでひとまずピリオドを打って、私がこの会で何を目的としていたか、これからどういうことをしたいと思っているのかをまとめておこうと思う。


【そもそものきっかけ】


 思い返せばそもそものきっかけは、「志の高い同期を集めたい」というものだった。もちろん、私の会社に集まっている同期は、それぞれに個性があり能力が高く尊敬する人間ばかりである。しかしながら、そのベクトルは様々である。体育会系でスポーツをばりばりやってきて、休日も練習に追われつつ日々の業務ではチームで結果を出すことに長けたものもいれば、大学院までファイナンス理論の研究を追求してきて、就職後もそれを続けるものもいる。海外勤務を目指し語学学校に通うものもいる。飲み会や合コンで社交力を磨いているものもいる。そんな同期に囲まれて、私がやりたいことは何か、それを考えた結果、考え至ったのが勉強会だった。大学で所属した学生団体では、複数人でチームを作って、社会問題や開発の課題を議論したり、企画を立てたり、事業運営をしたりとしたことをやってきて、そういった活動が好きだった。そういった自分の強みを生かして、同期なり組織に貢献したい、あわよくば自分と言う存在をアピールしたいと考えていた。そして胸襟を開いて将来のことを語り合える友人ができたらと思っていた。4人が揃うまではそれほど時間はかからなかった。顔ぶれが揃い、最初に神谷町のスタバに集まってこの勉強会は始まった。

「財務分析」と「市況分析」
 勉強会を2本だてにしたのは、私が一銀行員として、企業財務とマーケットどちらも興味をもっているからである。そもそも私が金融機関で働こうと考えた理由は、金融と言う分野が、どんな産業にも関わる業界であると同時に、地球の裏側で起こる出来事を常に踏まえながら目の前の仕事に取り組む、俯瞰的でありかつダイナミックな業界だと考えたからだ。目の前の企業と向き合うことと、地球の裏側の出来事に目を配ることは、相反することのようで、じつは車の両輪であると考えている。だからこそあえて2つを柱にした。裏の意図としては、どちらかに偏るであろうメンバーの興味を補完する目的もあった。ベースとしては「藤戸レポート」と「大津本」を用いた。どちらも私たちのレベルと興味に合致する内容であり、この選定は間違っていなかったと思う。


【反省点】


1.会の趣旨はしっかり共有できていたか?
 上記のような経緯と目的で始めた勉強会だったが、結果として会の趣旨は十分に達成されなかった。半年で収束しつつある状況を考えると、惹き付けるなにかが会としては不十分だったと言わざるを得ない。

2.取り上げたテーマは適切だったか?
 同期として共通のテーマを設定したものの、会が進むにつれて微妙な方向性のすれ違いもあり、満足のいかないメンバーもあったようだ。大津本についてはもちろん課題図書自体として良書であると認識しているが、(1)間延びしてしまったこと(2)準備ができていない時があったこと(3)誰が仕切るのか曖昧であったこと、といった運営面でその可能性をフルに生かしきれていないと言わざるを得ない。藤戸レポートについては、レポート自体は面白いものの、毎回関連テーマを議題として直前に提示するのみで、感覚としては単発、最後の方は流し読みでそれほど議論が盛り上がらなかった。体系だっていないがために、面白い議論が始まることもあれば、堂々巡りで終わることもあり、狙いの市況分析はできていなかっただろう。

3.運営面での足かせはなかったか?
 まず、メールの一斉送信では限界がある。話し合いも盛り上がらないし、そもそも不便である。Facebookのような場所で早めにプラットフォームとなるものを作っておくべきだった。私がおっくうな性格のため、他にウェブ方面に明るいメンバーが不在だったことが、反省点である。また、メンバーのスケジュール調整にも毎度頭を悩まされた。私は取りまとめ役だったので、誰が足を引っ張っている訳ではないことが把握できるのだが、他の参加者にとっては自分の都合で延期になるとあたかも自分が足を引っ張っていると感じていたかと思うと、申し訳なく思う。その意味で、もっと運営をシームレスにしておくべきであった。次に再開する時は、はじめからブログかグループページを作っておこうと思う。

4.開催日時、場所は適切だったか?
 休日のみの開催で土日の午前に設定したのはまずまずであった。夜は各自予定があるだろうけれど、午前であれば集まれるし、なにしろ時間を有効に使える。欲を言えば朝食を一緒に食べながら、といった会にしたいものだ。場所は、ほぼ六本木のTSUTAYAスタバ併設店を使った。これには賛否両論ある。確かに雰囲気がよく休日を過ごすにはもってこいの場所であったが、同じ場所を使いすぎたきらいはある。席も狭く本を広げるには不十分だった。一番の反省点は、定期開催ができなかったことだ。次の日程を決めるのを忘れたり、欠席者がいたりすると、主催者がスケジュール調整を担う必要が生じ、正直億劫であった。このような状態だと、早晩スケジュール調整がいきづまり定期開催が難しくなることは明らかで、事実その通りになってしまった。調整については、「ちょーすけ」やGoogleカレンダーを使う等もっと工夫する必要があるように思う。早急なカイゼンが必要だ。

5.参加者の範囲は限定的しすぎだったろうか?
 4人で十分だったか、確かに議論は活発化した。しかしながら、結果を思うとなんともいいがたい、苦い感じである。もっと広くオープンにしても良かったのではないだろうか? どちらにせよ同期であるし、休日は皆予定があり、広く声かけしても、会の趣旨が満たされぬほどの人数が集まるとは思えない。それよりも広く同期の間に自分たちの集まりの存在を知らせた方がメリットになるのではないか。運営面でしっかりと定期開催ができるようになれば、人数は4人以上でもうまくいくはずである。ただし人数が多いと、議論の積み重ねから生まれるある種の共通体験を共有できないこともあり、議事録等で議論の積み重ねを共有することが課題である。

6.ファースト・フォロワーを大事にできたろうか?
 私が一人で主催するような形にせず、最初の4人をうまく企画側として同じ立場で協力をあおぐべきだった。たとえば、告知を輪番にするとか、テーマ設定を他に任せるとか。一から十までお膳立てしたことで逆に自分が動かなければ会が回らないと言う状況になり、それではうまくいかないことがはっきりした。これからは、この点に気をつけようと思う。


【結びとして−結局のところ何がしたいのか】

 勉強は一人一人が個人的にするものである、という考えは大学生を筆頭に世間一般に広まっている考えだと思う。こういうと反論があることは承知の上であるが、およそ勉強と言うものは、受験にしたって語学学習にしたって、人様の目に見えないところで個人的に努力するもの、と言う意識が私達にはあるのではないだろうか? 事実私自身がもともとそういう考え方だった。小学校から始まった受験勉強は、塾の友達とつるむということは極力避け、静かに勉強し、家では黙々と問題に向かい、テストで誰もたよりにできない場所で結果を出す、ということを繰り返してきた。中学受験に限らず、高校受験や大学受験を経験した人にとってはそういう感覚が大きいのではないだろうか。つまり、勉強しているなんて姿を友人に見せるのは愚の骨頂で、スポーツ等学生生活を謳歌しながら、人知れず勉強し結果を出すこと、それこそがカッコいい。特に、東大生などにはそうして入学してきたものも多く、勉強が得意でありながら、そういった姿を人に見せたがらない人が多い。私もそういうタイプだった。

 しかしながら、浪人時代を経てそれが大きく変わった。浪人時代も黙々と勉強していたものの、その姿は隠さずにいた。つまり、がむしゃらな姿を友人に見せつつ勉強したのだ。高校の同級生には格好の悪い奴にみえたに違いない。彼らはクラスの後ろに座り、なるべく目立たず、授業後もさっさと帰り、家で勉強することで結果を出すようなタイプだったから。その点、私は予備校の閉まる最後まで居座り、朝もなるべく早めにくるようにしていた。そういう姿をみせていると不思議なことに友人が徐々にできるようになった。もちろん、試験で好成績を出せたことも大きかったものの、人は素直にひたむきな人間とか自分と志を同じくする人間に惹かれるということを肌で感じることができたのだ。浪人時代の後半では、そういった仲間と励まし合い、教え合ったり、センターの模擬試験を一緒に解いたりといった形でとても楽しく過ごすことができた。結果としても、目標の大学に入学でき、今でも一緒に集まるかけがえのない仲間ができた。

 結局、勉強もスポーツと同様、共同作業なのだ。高校生の頃までの自分には、勉強が共同作業であるとは考えもしなかった。それは友人に限らず、先生や両親、そして試験の先にいる見えない出題者まですべてをひっくるめての共同作業なのだ。

 こうした成功体験を経て、勉強を一緒にやることへの楽しみが自分の中に染み付いた。さらに大学におけるゼミや、学生団体での活動を経て、それが非常に大きいものになっていった。浪人時代、一足早く大学生になって友人が、「シケプリ」とよばれる試験対策資料や試験の点数ばかりを気にする姿を見て「点数ばかりを語る大学生にはならない」と手帳に記した。社会人になった今も、同様のことを考えている。「学歴や資格ばかりを語る社会人にはならない」。確かにそれらは社会的に重要であるのは事実である。しかし、結果としてそれが与えられれば十分であって、目指すものでは決してない。私はそれに至るプロセスの方を重視したい。一人真面目に静かに参考本に向き合うより、仲間と集まり議論しながら勉強する方が、はるかに自分にとっては重要で、チャレンジングである。これから様々な困難や、芳しくない出来事が突きつけられようとも、ここは一つ頑張ってみたい。

2011年6月5日日曜日

Dive into the unknown!


友人3人で勉強会を始めることになった経緯は以前書いたが、
GWを境にWebサイト(http://tesg.web.fc2.com/index.html
を作成してより広く声かけしようと言う話になった。
開設にあたって仲間募集の文章を書いたので、ここに掲載しようと思う。


同士求ム!!!
最高を希求する知的好奇心、野心にあふれた不確実な時代の航海者たちよ
東日本大震災の余震が収まらない。これだけの揺れを日々感じていると、もはや私たちが立つ地面は堅くどっしりとしているとは到底思えない。部屋にいるとき気がつくと揺れているこの状況は、まるで大洋に浮かぶ小舟の上にいるかようだ。そしてフクシマの原発事故は電力不足に対する危機感と放射能に対する恐怖を私たちの日常生活にもたらした。震災のあと日本を覆ったあの自粛の静けさを奇妙に思いながら、小舟の上で、いつまた火を噴くとも知れぬ壊れた動力源に不安を抱きつつ、私たちは日々を過ごしている。
世界地図を思い浮かべてみても、私たちの生きる日本列島はまるで太平洋に浮かぶ小舟のようだ。西のユーラシア大陸では中国をはじめアジアの新興国がますます存在感を増し、東のアメリカ大陸では今も世界をリードする産業や企業が生まれる。そんな両地域にはさまれて、世界第2位の経済大国の地位も譲り渡し、ますます薄れゆく存在感に沈まぬよう必死にもがいているのが日本である。
そんな小舟に生きる私たちは何処へ向かおうとしているのか。The Economist誌は震災前にSpecial Report on Japanとして日本特集を掲載している。その記事の見出しは”Into the unknown” (未知の領域へ)。少子高齢化が進み、世界のどの国も経験したことのない人口減少社会に突入した日本。戦後史に残る政権交代を成し遂げたにもかかわらず毎年代わる首相の顔と混迷した日本政治。かつて輝きを誇った産業経済にも停滞の影がにじんで久しく、毎年積み上がる巨額の国債といまだ低迷する日本経済の出口はみえない。そんな日本の状況を評して同誌は“Into the unknown”としたのである。
同誌のこの洞察は、震災を受けてますます的を射たものになりつつある。日本にはこれらの課題に加え、2万人を超える犠牲者を出し広範囲にがれきと化した地域の復興や、未曾有の原発事故によって白紙に戻った原子力エネルギー政策をはじめ、世界が経験したことのない頭の痛い課題が次々とふりかかる。未知の課題に直面する「課題先進国」日本、これが私たちの生きる国の姿である。
私たちはこうした不確実性に満ちた未知の環境下において確とした態度を決めなければいけない。それはリスクや孤高を恐れず、先頭に立って不確実性の海に飛び込む勇気ある態度である。不確実性の領域においては、次に起こることを誰も予測できない。だが、その中で私たちは少しずつであっても、もがき泳ぎ、確とした本質をとらえていく他はないのだ。揺らぐ小舟にいつまでも居座り、いつ沈むとも知れない不安な時を過ごすより、今は少しでも前に進むべく動くべきではないか。正解のない課題を目の前にして世界は私たちの一挙一投足を注意深く見ている。
Dive into the unknown 飛び込もう!未知の領域に!!
April 2011
Yoshi Ogawa




震災の3週間後に結成された私たちのStudy Groupは、様々な分野のExcellentを目指す仲間が毎週日曜の朝に集まり、英国発信の国際情報誌であるThe Economist誌を題材に、記事の内容を発表・議論しています。扱う記事は地域も内容も様々、未知の話題も多く知的刺激にあふれた集まりです。少しでも興味がある方は、一度ご連絡ください。仲間になりましょう。

2011年4月11日月曜日

pray for Japan


 震災から一ヶ月が経ち今思うことを書き留めておきたいと思い、眠い目をこすりつつPCに向かっています。



 幸いにも個人的には直接的な被害はなかったものの、私にとってこの震災は大きな衝撃であって、いまもその感覚は続いています。壊滅的な津波の被害、広範囲に渡って、尊い命と共に生活のすべてが流されてしまった東北の沿岸地域。その光景は目のあたりにした全ての人が「途方に暮れる」ものであったことは想像に難くありません。次々と悪化する福島第一原発の状況は、一ヶ月を経てもなお予断を許しません。大きな不安を抱え、急き立てられるように避難した周辺住民の方々は、傾いた我が家を残して未だに戻ることができません。何よりもなお1万人以上の方々が行方不明となっている現実、多くは倒壊した建物のがれきの下に沈んでいるか、引き潮と共に沖へと流されてしまったのでしょうか。一瞬にして消えてしまう命のはかなさをうらむと共に、亡くなった方々のご冥福を心より申し上げます。遺されたご家族の心中察するに忍びありません。どうか心を強く持って、生きる力を絶やさないで欲しいと思います。被災地でなおつらい想いをされている方々、特に避難所で暮らしている方々におかれましては、辛抱が続きますが、私たちもできる限りのことはなんでもしたいと考えておりますので、余震も続き落ち着かない心境のこととは思いますが、一緒に復興に向かって一歩一歩前に進んでいかねばなりません。

 震災直後から現在に至るまで、小国から大国まで世界中から温かい支援の手が差し伸べられたことを私たちは決して忘れません。行方不明者の捜索に懸命に取り組んで来られた自衛隊、消防隊の方々をはじめ、ボランティア等被災地に出向き積極的に支援に関わって下さっている方々にも感謝したいと思います。私たちは一人ではありません。そして、震災は人ごとではありません。運命のいたずらか、何かが違えば被害を受けたのは自分かも知れない、全くの不確実な時間の中で、全くの偶然性によってもたらされた悲劇。未来は誰にも分からないという不確実性、そして大いなる自然を前にして人類はあまりにも無力であるという現実に直面して、ちっぽけな私たちは手を取り合って生きていくほかはないのです。東北に点在する電子機械の製造業をはじめ各種の部品供給メーカー、素材メーカー、食料品、水産、といった供給拠点の打撃は、日本に限らず、世界において東北の供給拠点がいかに重要な役割を果たしているかということを浮き彫りにしました。世界はかくも緊密につながっているという事実を知るにつれ、私たちが世界に対する責任を負っているという意識が皆の心にうまれつつあります。世界各国からの想いを胸に、私たちは協力して復興へ力強い一歩を踏み出したいと思います。