この文章は、2010年4月の研修中に、キャリアについてまとめた文章。
今読み返すと頭でっかちで理屈っぽい、そしてアイデアベースの語りぶりだ。
自分が「登りたい山」はどこかという目指す道筋がはっきりと見えてこないままだと、
この文章のような曖昧なスタンスに終始するだろう。
【なぜ就職なのか】
なぜ今就職なのか、それは挑戦をすることで更なる高みを目指すためだ。働く、学ぶ、働く、学ぶのサイクルを続ける挑戦を経て自分の人格を磨いていきたい。自分が学ぶべきことはまだまだ沢山ある。自分はまだ勉強不足だ。留学や大学院に入り勉強をしたい。私が働くというのは学ぶことをやめてしまったからではなく、より多くを学べるようになるためだ。学校という組織に所属してもう20年近くになる。確かに小中高大と学ぶ場所や内容は変わったが、基本的に先生に教えを受けるスタイルで学んできた。大学になると自分で主体的に学ぶ学問に取り組んだ。これはまた異なる学び方だが、それでも大枠は一緒だ。学びは社会のため人のためになるかというよりも、どちらかというと自分のためであることが多い。就職することはこの姿勢とは根本的に異なることである。誰かのために何かをして人間関係の中から学ぶプロセスである。学校で学問だけ学んでいることも可能だが、それでは自己完結してしまい自分が生きている意味がないのだ。長い学校生活を経て、人生からに閉じこもって自己完結しないため就職する。それが私の挑戦である。
【働くことと生きる意味】
生きる意味を考えるとき、どうしても自分単体では考えられなくなる。無人島で一人孤独に生きることに果たして生きる意味はあるだろうか。今孤独であっても、誰しもいつかどこかで人とつながりたい、つながっていたいという思いを持っているのが自然ではないか。そうであるならば生きる意味とは、人と共に生きることにある。そもそも人と共に生きるためには、他の誰かに何かを与えることがなくてはいけない。なにか自分生み出したものが、人にとって意味のあることで、いつかどこかにそれを必要としている人がいることが望みだ。ここにおいて働くことは生きる意味と密接に関わっている。働くとは社会と自分がどう関わるかということである。社会の中で自分はどういう役割をこなせば、社会にとって、身の回りの人々にとって良いことなのか。仕事は社会から与えられるものだ。仕事を与えられるために自己研鑽し人格を磨き仕事が与えられる人物に成ることによって、人は仕事を得る。人と共に働くとき自分は自分が存在していると感じる。喜怒哀楽を共にすること、協力して何かを達成すること。そのような機会を作ることが働くことであり、作る場が職場であり会社である。どんな仕事にも誠実に本気で取り組むことで、社内外の人からの信頼を築き、頼りがいのある人間になる。そしてより大きな意義のある仕事に取り組めるだけの人を巻き込む力をつけて仕事をしたい。
【「節目の時代」を迎えて―日本に必要とされることは何か。】
【「節目の時代」を迎えて―日本に必要とされることは何か。】
私たちの生きる日本は「節目の時代」を迎えている。日本は少子高齢化によって2006年から既に人口減少局面に入った。なぜこれが節目かというと、人口減少とは世界歴史の中でも人類がいまだかつて経験したことのない局面であるからだ。人類は戦争や災害による減少を除いては、常に人口増加の歴史を歩んできた。今の日本は、世界で最も安全で平和な社会にも関わらず人口が減っている。こうした「ダウンサイジング社会」における将来像はいまだ不透明であり、人口減少を食い止めようとすることばかりが政策として取り上げられる。しかし、視点を変えて考えてみたらどうだろうか。つまり人口のコントロールはいったん棚に上げて、人口減少社会における新たな将来像を提示する試みである。人類がいまだ経験したことのない平和なダウンサイジング社会に日本は最も早く突入する。社会の進化史観に基づけばこれは悲劇であるけれど、社会は右肩上がりに進まない、上りもあれば下りもある、循環するものと考えれば、これは悲劇でもなんでもない。ダウンサイジングしていく社会のモデルケースを世界に提示するチャンスを日本は今手にしている。そこに日本の進むべき道がある。
ではその進むべき将来像とはどういうものか。すでに、その萌芽はいたるところに見られる。一つは子供と高齢者をいたわる社会である。人口減少局面では高齢者の割合が増加する。高齢者の住み良い社会を目指さなくてはならない。つまりユニバーサルデザインやバリアフリー社会である。また、そういった社会を将来支える子供は今以上にとても貴重な存在になる。子供を育てることは社会的な営みになるため、母子を支援する社会的枠組みや事業を整備しなくてはならない。既に老人ホームのような住宅分野は、社会的要請に応えながら事業として成立している。まだ不十分だと思われるのが、子供に対するアプローチだ。まだまだ、子供を産み育てやすい環境づくりに事業がない。保育所がない。潜在的ニーズがあることは間違いない。
もうひとつは高密度効率化社会だ。人口減少社会では社会インフラも人口に合わせ縮小していく必要がある。ここに公共事業が今度は逆のかたちで生まれる。つまり、ダムを取り崩す事業、道路を狭くするような事業が必要となるということだ。国土保全の観点から都市への一極集中は好ましくないが、住んでいる場所はそのままに、インフラはコンパクトで高効率なものに作り替えるといった作業が必要になる。また、ここに環境技術は使われるだろう。たとえば僻地に大規模な電線網を配備する必要はなく、風力発電であるとか太陽光発電でことが足りる。インフラを取り壊すまでにいかなくとも、施設や土地は余る。休眠資産の活用にも新たな可能性がある。
【日本に新陳代謝をもたらすために、自分ができること】
節目の時代を迎えた今、日本には聖域なき新陳代謝が必要なのだ。それは産業を問わない。1億3千万人時代から1億人を切る時代へ。金融産業にもできることはたくさんある。そもそも必要としているところへ資金を流し、産業の新陳代謝を促すことが金融機関の大きな役割なのだから。健全な資本市場の育成によって企業の買収・合併を促すことも金融機関にできることである。子供や高齢者をいたわるために、ニーズに沿った新たな金融商品を開発することも、環境技術への刷新を融資によって促すこともできる。ただし当たり前のことだがなかなか自分がこう考えたとしても、なかなかデザイン出来るものではない。自分が影響を与えるできる範囲は非常に限られており、社会の物事にはその範囲をはるかに超える多くの人が関わっているので、大概は流れに身を任せるだけである。だがしかし、チャンスは一様に巡ってくる。そのチャンスをモノにするため、I am Readyと常に準備していなければならない。限られた環境下、限られた機会においていかに自分が立ち振る舞うか、それが問われているのであり、それが「キャリアデザイン」なのだと思う。
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