2012年7月29日日曜日

Fly to Myanmar: Just the way you are


ミャンマー滞在レポート
※本レポートは、20127月現在の情報によるものです


本稿は、筆者が2012724日〜28日のミャンマー滞在時に見聞した出来事をもとに、その経験や印象をまとめたものです。

過熱する「ミャンマー詣で」

日本人の「ミャンマー詣で」が過熱している。私の乗ったベトナム航空ハノイ経由ヤンゴン行きでも、日本人ビジネスマンの姿が目立って多く、機内で「これも何かの縁ですから」と名刺交換が行われるほどであった。日本からミャンマー入りする際は、このほかバンコクを経由する主要路線の他に、今年に入ってANAも直通便を運行させる計画を発表している。日本語が堪能な現地ガイドのヤタナ氏によれば「欧米人は去年(2011年)から、日本人は今年に入ってから目立って増えてきた」という。政府高官も足しげくミャンマーを訪れるようになった。201112月には、玄葉外務大臣が外務大臣としては9年ぶりに訪緬。私の滞在中には、JBIC(国際協力銀行)Meetingが行われており、ヤンゴンの東23キロにあるティラワ地区における日本企業団による開発受注交渉のため訪れた参議院議員の仙谷由人氏や内閣官房参与の前田匡史氏の姿もあった。

急速に変化する政治情勢

政府高官から民間のビジネスパーソンまでが、こぞってミャンマー入りをする。その背景には、この国の政治事情の急速な変化がある。2011年テイン・セイン大統領が就任して12年の急変だ。現地を訪れると政治の変化がもたらした変化を目にすることができる。ヤンゴン国際空港は2007年に改築され、かなり近代的な装いだ。アウン・サン・スー・チー氏の自宅前も、201111月の解放前は通行が禁止され、塀壁が崩れてぼろぼろだったそうだが、最近は各国政府要人が訪問するためか、私の訪問時はきれいに整備されていた。ミャンマーはASEAN議長国を初めて引き受けることが決まっており、為替レート統一のための管理変動相場制移行など対外的な整備が急速に進んでいる。それと同時に、国内の政治犯の解放や少数民族武装勢力との停戦措置といった人権問題の改善、中古車両の廃車許可および輸入許可の一部解禁など経済改革も進め、そうした動きが日本人をはじめとする外国人の訪問を加速させている。「それまでも軍事政権下とはいえ日本人訪問客はそれなりにいた。しかし、20079月の長井さん銃撃事件があってからは、極端に減った。ヤンゴン外語大学で日本語を学ぶ生徒は、英語、中国語に次いで3番目だが、その時期は少なかった。」と話すのは、外語大学出身の日本語ガイドのヤタナ氏だ。日本人と少しでも関わりのあるミャンマー人は誰もが、僧侶のデモ行進の取材中に制圧部隊の銃撃を受け亡くなった長井さんの事件を知っている。長井さんの事件後は、ビザの審査に職業を示すバウチャーの提出が加わるなど、ジャーナリストの入国が難しくなった。長井さんの事件を話すミャンマー人の誰もが残念な表情を浮かべていた。それだけ、あの事件の影響は大きかったと言える。それだけに昨今の民主化の進展は、日本とミャンマーの関係を強化するものとして期待されている。

期待の高まる2015年総選挙

ミャンマーの政治情勢を見守る上で、一つのマイルストーンとなるのが2015年の総選挙である。20124月、45選挙区で実施された補欠選挙において,アウン・サン・スー・チー氏率いる国民民主連盟(NLD)が43議席を獲得、大勝利をおさめたことは記憶に新しいが、この議席数は全体のわずか6%強にすぎない。そして国民の人気を集めるNLDが国会議席の過半数をとる可能性があるのが2015年の総選挙なのである。パガンで出会った青年は「ミャンマーの人々は皆アウン・サン・スー・チー氏を尊敬している」と語っていた。その青年の家族はミャンマーの伝統工芸品である漆器を手作りで生産している職人の一家であり、自宅は電気も引いていないようなつつましい家であったが、壁にはアウン・サン・スー・チー氏とその父であるアウン・サン将軍の肖像が掲げられていた。青年の兄は「今の政府は良くない。だけど、変えられるのはあと3年後だ。私たちは2015年の総選挙まで待つしかない。」と語っていた。

日本中古車の「自動車ミュージアム」

首都ヤンゴンを走る自動車は、日本車が80%近くを占める。そのほとんどが、中古車だ。驚くのは、1980年代製の日産サニーから2010年代製のホンダインサイトまで現役という年式の幅広さだ。なかには1960~70年代製と思われる日野のボンネットトラックまで走っていて、さながら日本車の動くミュージアムとなっている。ただ、「ヤンゴンに自動車が増えてきたのもここ1年のこととのこと」とのことで、201112月まで禁止されていた中古車両の廃車許可が下り、街を走る車両が格段に新しくなった上、それに伴う中古車両の輸入許可によって、いままで一台数千万円したものが、数百万円台に下がってきたからだという。日本中古車輸入販売会社のソウ氏によれば、最近人気の車種はトヨタのProboxのようなワゴンタイプのものだそうだ。無論、大きな荷物も運べる実用性が人気の理由だ。ミャンマーで日本車が好まれる理由は、必ずしも日本が好きと言った理由ではなく、丈夫で壊れにくく長持ちする点だという。ミャンマーにおいて自動車の重要な機能は、実用性ならびに何十年も運転できる耐久性である。であるから中古車市場とはいえほとんどが日本製やドイツ製で、アメリカ車などは全く見向きもされないそうだ。安くなってきたとはいえ、平均月給が1万円にも満たない庶民にとって自動車は高嶺の花であるものの、一部の都市富裕層には着実に浸透していることは確かだ。

自動車の普及とともに必要となるインフラ整備

ヤンゴン市内の富裕層には生活の一部となりつつある自動車だが、自動車を取り巻く環境インフラには課題がある。ヤンゴンでiPhoneをはじめとするApple製品の修理事業を立ち上げた起業家の若者の車に乗せてもらう機会があったが、彼の愛車のトヨタのハリアーは、運転席をのぞいて座席が取り除かれていた。聞くと道路を走行中に浸水し、座席が水浸しとなってしまったそうだ。私の滞在中ヤンゴンは雨季であり、毎日土砂降りの降水があった。市内の道路の一部で冠水しており、そういった場所に不用意にも入り込んでしまったのだという。ヤンゴンは近代的な都市であるが、一部そういった道路がそのままであることは、毎年記録的な雨量のある都市とはいえ、インフラ未整備の状況が垣間見られた出来事であった。ヤンゴンにおいては、「この数ヶ月で目に見えるほど自動車の台数が増えた」という状況であり、より経済改革とそれに伴う経済発展が進むにつれ、今後も自動車台数は急速に増えることが予想され、それに伴う道路環境の悪化が予想される。また、ミャンマーは停電が日常茶飯事であり、水道水も雨季は濁っている。道路およびその他のインフラを含め、生活のライフライン全般について整備の必要性を感じる機会が多かった。

日本企業の進出状況と課題

BTMUヤンゴン駐在員事務所があるSedona Hotel内のBusiness Apartmentには、JETROや双日、豊田通商といった総合商社に加え、川崎重工、千代田建設、清水建設、NTT DATAといったインフラ建設業者が入居するほか、4月にはみずほコーポレート銀行も駐在員事務所を設けた。日本企業のミャンマー進出が加速する中、いち早く現地事務所の開設にふみきった日本中古車貿易会社のオフィスにミャンマー人スタッフのソウ氏を訪ねた。当社は日本の中古車を世界各国のディーラー向けに輸出する中古車輸出販売業であり、自社開発のシステムによるカスタマー・サポートを強みとする企業である。オフィスは、ヤンゴンでも外資系企が多く集積するBahan地区の商業ビルの9階(8th floor)にある。窓からは黄金色に輝くシュエタゴン・パヤーが見渡せ、国際空港や官公庁の集積するダウンタウンエリアへのアクセスも近い好印象の立地である。オフィスは、従業員の住居も兼ねており、接客スペースには大きなソファーがおかれているほか、4台あるPC机はモニターが可変できる対面式になっており、同じ画面を見ながら、職員と顧客とが交渉できるように整備されていた。

オフィス開設の目的は、強みであるカスタマー・サポートの更なる強化だ。敬虔な仏教徒で、温和かつ誠実な印象のミャンマー人だが、ソウ氏の言葉を借りれば「ミャンマー人も文句が言いたい」のだそうだ。それも直接顔をあわせて、ミャンマー人相手に苦情を言いたいのだという。ミャンマー人の気性は意外に激しい。柔和な表情と気高い雰囲気を備えたアウンサンスーチー氏を思い浮かべていただきたいが、仏教徒としての穏やかさがある一方で言うべきことは主張する大陸系の性格の持ち主が多い。日本人のイメージしやすいところでは韓国人の性格に似たところがあると言えるかもしれない。それまでも当社は自社のシステムを通じて、車両を購入する顧客へ現地語スタッフを通じたダイレクトかつ迅速な情報提供を行ってきたが、更なる顧客接点の強化のためには、現地での顔を合わせたサポートが有益であることは言うまでもないだろう。

より顧客の要望に近づけるため、当社は政治情勢が不透明な現段階でのミャンマー事務所の開設に至っている。現段階での事務所開設は日本企業にとってかなり早い決断であると言えるが、ミャンマー事務所開設を急いだ背景には、同国を取り巻くスピード変化に対する危機感がある。「中国や韓国の企業は決断のスピードが速い。チャンスと思えばすぐに金を出すし、事務所等も展開する。ダメだと思えばすぐに撤退の決断をする。日本企業はなかなか動かない。」(ソウ氏)ミャンマーでは日本車が人気であり、その点では当社に一日の長があるとはいえ「業界の競争は激しさを増している」のが実情だと言う。

「人材不足」

日本企業のスピード不足を指摘するソウ氏の言葉には実感がこもっていたが、それには現地の採用を担当する彼の焦りが垣間見える。その焦りとは、人材確保がままならないことへの焦りだ。平均年齢が27歳と、若者層の人口が豊富なミャンマーだが、その人口と裏腹に「人材不足」は深刻である。ソウ氏の友人によれば実に「ミャンマーの大学に進学する若者の75%が海外留学する」という。若者の海外離れが警鐘されている日本人にとってはうらやましい限りに思えるが、事情はそんなに甘くはない。というのも、若者の海外留学の背景には、自国での教育・就業機会の不足と、ミャンマー政府の抑圧があるからだ。有能で高学歴な若者ほど、自国の政治情勢を嫌い、母国へ戻って来ないケースが多い。畢竟、外資系企業に求められるような2、3カ国語を操れる人材や、ITスキル、文書作成、経理などの能力を備えた人材の確保が難しくなる。「民主化の進展で、本国に戻る人間も増え、この状況も変わりつつある」とのことだが、海外からの進出企業も増加が見込まれる中、当面この人材不足は続きそうだ。そしてこの人材不足は、単純に給料を上げたからといって、確保できるものではなく、供給人数の絶対的な不足に起因するものであるから、これから進出を計画している日本企業にとって大きな足かせになるに違いないであろう。

ミャンマーで感じた「若さ」と「未熟さ」

ミャンマーは「若い」国であった。道ゆく人々も、ホテルやスーパーで働いている従業員も、26歳の私より若い人が多かった。人だけでなく、社会を支えるインフラや商店に並べられた電化製品、日用品、そしてそれらを取り巻くサービスも、未整備で、荒削りで、どことなく「若さ」を感じるものが多かった。ヤンゴンで私の滞在したYUZANA HOTELは、スタンダードな中級ホテルであったが、ホテルにはYUZANA DEPARTMENTというちょっとしたショッピングのできる店舗が併設されていた。「田舎の地元百貨店」といったおもむきだったが、目についたのが店員の多さとその就業態度である。各売り場、各通路に20歳前後の店員が配置されているのだが、接客するでもなくただ座っているか仲の良い店員同士で集まって話しているだけであった。中には熱心に読書に励む女性もいたが、それも売り場では違和感がある。どの店員も制服を着用しているので確かに「勤務はしている」のではあるが、「仕事はしていない」といった印象だ。若い店員が多く、さぼっているというよりは「仕事の仕方がわからない」というようにも見受けられた。ヤンゴンには近代的なショッピングモールもあり、その店員は「普通に」働いていただけに、一概にすべてこのような状況とは言えないのだが、印象的な光景だった。「人材不足」と言われる一方でのこの「人余り」とも言えるこの状況は、ミャンマーの「若さ」「未熟さ」を象徴している。

ミャンマーの将来を背負う若者達の夜

滞在中にヤンゴンのクラブを訪れる機会があり、自らビジネスを立ち上げた若者たちに出会うことができた。クラブ文化は世界共通で、ヤンゴンもナイト・クラブが盛況であり、富裕層の若者は毎週末こうしたクラブを訪れる。私が訪れたのは、ヤンゴンでも屈指の高級クラブであったが、アルコールに歌とダンスを楽しむ場である一方で、そこは若者の社交場として機能していた。彼らは、携帯電話で情報をやりとりしてクラブに集まるのだが、クラブでの彼らの行動は忙しい。ダンスもそこそこに、あちこち動き回って友人への挨拶周りをしていた。週末の夜に久々に会う友人と会話することは楽しいものだが、それに加えて彼らにとってはビジネスにつながるというメリットもある。ミャンマーは若い国であり、ありとあらゆる製品、サービスに発展の余地がある。私が出会った若者も若くして自ら会社を所有している人が多かった。そうした未発展の市場で、自らの会社を成長させていくチャンスは、人つながり、人的ネットワークから得られることが多い。そのため彼らはクラブであっても、つながりを維持する努力を怠らないのだ。そうした新規ビジネスを立ち上げている人間の多くが同世代であることも、若者の集まるクラブが社交の場となっているゆえんであろう。大音量のクラブミュージックが流れる建物の中で、そうした若い世代が次のミャンマー社会を担っていく可能性を大いに感じた。

ミャンマーで感じた「豊かさ」

意外な発見としては、ミャンマーの「豊かさ」を感じる機会が多かったことだ。無論、私が外国人であり、それなりのホテル、レストラン、訪問地を選択した結果、滞在中に途上国の「貧しさ」を感じなかったのであることは事実だが、東南アジアの最貧国の一つとして覚悟して行ったにしては、拍子抜けするほどであった。特筆すべきはミャンマーの文化である。街ゆく人々は男女問わず「ロンジー」と呼ばれる色とりどりの腰巻きを身につけており、欧米の服装になれた目にとって新鮮であった。女性や子供は、ほほに自然成分の日焼け止めつけている。仏教寺院では、一般の人々がお参りに訪れており、街では出家僧が托鉢に回る姿が見られるなど、仏教が日常生活にとけ込んでいる。確かに町中で売られている商品や食物は日本の磨き上げられた商品に比べると、ほこりを被っているようなものや、粗悪なものが多かった印象だが、そうしたモノの「貧しさ」以上に、ミャンマーの文化や生活、人間関係に「豊かさ」を感じることが多かった。

「発展途上国」とひとくくりにすることへの危惧

クラブで出会ったような一部の若者は、日本の若者より豊かな物質生活を謳歌していた。ミャンマーで手に入れようとすると今でも数百万円するような日本車を所有し、スマートフォンを駆使して自分の会社の経営を仕切っており、その姿は一時期日本でも話題になった六本木のITベンチャーの経営者たちを彷彿とさせる。経済指標の平均をとると、ミャンマーは日本に比べて遥かに貧しい国であるが、ミャンマー社会においても格差は存在しており、富裕層は先進国の生活並かそれ以上の生活をしているという見えない事実に気づかされた。その一方で、経済指標に表れているような「貧困」も明確に存在しているのがミャンマー社会である。私の滞在は主にヤンゴンというミャンマーでも第一の経済都市だったが、一部の日程で地方都市であるパガンにも滞在した。パガンは観光地であったため空港やホテルは整備されていたが、2階建て以上の建物は見当たらず、道路も街を貫く道路が舗装されているくらいであって、他は土ぼこりの立つ未舗装の道路である。外国人の持ち込む外貨はこちらでの貴重な現金収入源であって、道中何度か物売りの青年に出くわすことがあった。彼らの真剣なまなざしは、土産物売りの現金収入が彼らの生活にいかに重要なものかを物語っていた。こうした実情は現地に足を運んで初めて気づくことも多々ある。「途上国」の枠に限らず、あらゆる場面において、ひとくくりにして考えてしまうがために見落としてしまうことの危険性を感じた滞在であった。

日本の機会と貢献

最後に、日本はミャンマーといかなる関係を築くことができるかについて私見を述べたいと思う。まずは、ミャンマー=「発展途上国」「アジア最貧国」という色眼鏡を外すことだ。こうした色眼鏡を通していては、真の姿は見えて来ない。途上国への進出というと、ビジネスでは人件費削減のための工場設置、非営利活動では貧困にばかり焦点をおいた慈善活動といったものに安易に行き着いてしまいがちだ。しかし、私が見たミャンマーはそうした活動とは多少ずれているところがある。確かに、短期的には、工場を中国よりも人件費の安いと言われるミャンマーに移すことで生産コストの低減が図れるであろう、また「最貧国」ミャンマーの「貧困」に焦点を当てた援助活動も短期的には効果がある。しかしながら、ミャンマーにおいては、既にそうした課題への問題提起はなされているのではないか。国内の物価や海外の労務水準と比較し、ミャンマーの人件費が不当に安く据え置かれていることで、遅かれ早かれ人件費は上昇し、貧困から生じる公衆衛生の問題等も徐々に改善に向け動き出している。短期的な視点にとらわれず、長期的に見てなにが求められているのかを注意深く探って行くことが必要だ。ミャンマーは「若い」国であり「豊かさ」も備えている。日本企業が頭打ち感のある国内経済を脱して海外に新たな投資機会を求めている一方で、資金も技術も乏しいミャンマーは、資金、技術、就職機会の提供者を切実に希求している。日本から一段下がった「途上国」として捉えるのではなく、より対等な立場で、私たちになにが求められていて、どのような貢献ができるか、お互いがそうしたことを模索していく中で、両国の長期的な関係が築かれるはずである。

参考文献
2012「特集現地ルポ 過熱するミャンマー詣で」WEDGE8月号
2012根元敬・田辺寿夫「アウンサンスーチー」角川書店
2012土佐桂子・永井浩・毎日新聞外信部「新ビルマからの手紙」毎日新聞社

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