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2015年2月27日金曜日

京都卒業

京都に着任して2年と3ヶ月、皆様には大変にお世話になりました。
特に部長、次長をはじめ先輩方、スタッフの皆様には
こんな私を厳しくも温かく鍛えていただきありがとうございます。

京都という土地は私にとって憧れの場所でした。
それは生活の場所としてもですし、働く場所としても
京都は、日本を代表する多くの企業を担当し、
仕事のできる先輩が集まる拠点として、
1年目の頃から強く印象に残っていました。
着任初日、同じように壇上に立ち身震いした日を今でも強く覚えています。

そんな「京都」を形容する言葉は多くありますが、
その中でも私は「伝統と革新」という言葉がイチバンしっくりきます。
京都には、伝統を守りつつも、革新を求める会社が多くございます。
私の担当させていただいたお会社はまさに、伝統と革新の狭間で
苦悩するお客様が多くありました。

そんなお客様を担当し、社長と様々にお話をさせていただきながら、
会社の将来にむけた取り組みを
手助けさせていただいたこの期間は私にとってかけがえのない経験ですし、
私の貢献は本当に微々たるものでしたが、大きな自信になりました。


次はマレーシアに出向となります。
希望を叶えていただき、こうしたチャンスをいただけることに大変感謝しております。

現地での業務は「イスラム金融」に関わる仕事だと言われております。
この分野は、イスラム教の倫理観、規範に基づく金融手法全般をさしますが
実はこの分野も「伝統と革新」の交錯する分野だと思っています。

というのも、イスラム世界の人々にとっては、自分たちが大切にしているイスラム教の
倫理観、規範といった「伝統」をふまえながら、いかに「革新」的な金融手法を取り込むことが出来るか
といった意味ですし、他方、私たちにとっては、「伝統」的なビジネスをベースにしながらも、
「成長分野」と言われるイスラムにいかに踏み込み、自身のビジネスモデルを「革新」することができるか、
という意味でもあります。

正直、現地での業務がどのようなものかはまったくの未知数ですが、
問題意識を持って業務に取り組み、この分野の限界や可能性を突き詰めてみたいと思っています。


「終わり良ければすべて良し」という言葉があります。
今思うのは、「一つの終わりは次の始まり」ということです。
皆様には、今後お仕事で関わる機会多々あるかと思います。
引き続きどうぞよろしくお願いします。

長くなりましたが最後に、職場の益々の発展と、皆々様のご多幸を祈念して
私の最後の言葉に代えさせていただきます。
本当にどうもありがとうございました。

2014年6月23日月曜日

これまでの人生の中で困難な経験や失敗から学んだこと

「先頭に立つ勇気を持つこと(挑戦)」「新しい物事に熱心に取り組むこと(創造)」「誰かの為を目的とすること(貢献)」これらは私が過去の経験から学んだ大切にしている姿勢であり、価値観です。私が、組織に関わる中で得た経験が、これらの貴重な人生の学びを与えてくれました。

1つ目の経験は、高校1年生の時に取り組んだ映画制作です。秋の文化祭に向けてクラスで映画制作に取り組むことになったのですが、誰もが無責任で、クラスには他人任せの空気が流れていました。各々の心が離れていくのを感じた私は、企画をまとめたい一心で、監督を担いたいと申し出ました。組織の先頭に立って物事に取り組むのは、初めての経験であり、挑戦でした。意を決めた私は、文才のある人に脚本を頼み、ITに明るい人に編集を任せ、役割分担を進めながら夏休みを目一杯に使い、映画制作に没頭しました。文化祭当日、完成した映画とそれを楽しむ観客をみて、熱心に取り組んで良かったと心から思いました。勇気を出して陣頭指揮をとったこと、観客に喜ばれる映画を生み出せたこと、監督として貢献できたこと、これらを仲間との協力で達成できた喜びが、私の原点となっています。

2つ目の経験は、就職して1年後に遭遇した東日本大震災です。私は当時、東京にある支社の新入行員でした。震災当日、閉店間際に突然建物が大きく揺れ、棚のファイルが一斉に倒れました。揺れが収まりしばらくして全員の無事が確認されたため、拠点は一時平静を取り戻したように感じられましたが、帰店する社員の報告や、電車が完全に止まり道路に人があふれる様子を目の当たりにするうちに、事態の深刻さが明らかになってきました。多くの社員は冷静さを装っていたものの、錯綜する情報と余震の危険がある中での帰宅判断に、不安な気持ちを抱えていました。家族の安否が気遣われる中、夕刻になって、それまで本部とやり取りを続けていた支社長から「帰れる人は帰宅の途につくように。帰宅が困難な人は拠点に残っても良い」との判断が下されました。その判断を契機として、先輩社員が指揮をとり、帰宅方向が同じものをとりまとめ、社員と建物に残っていた顧客が全員帰宅できるよう、次々と車や災害用品の手配がなされました。その日新人の私に出来たことは、拠点周辺の無事の確認や割れたガラスの片付けでしたが、冷静に判断を下した支社長、熱心に指揮をとった先輩社員、顧客や同僚への気遣いを忘れない姿勢を目の当たりにし、「組織として物事に対処するとは、こういうことなのだ」と肌で感じました。 

私は、「組織の先頭に立って挑戦し、新しい物事に熱心に取り組み、誰かの為に貢献するために、今ここで自分に何が出来るか」を意識するようになりました。それは、「組織という人間集団の中で、自分にどういう役割を求められており、どんな貢献が出来るのか」を考えることでもあります。今後も、困難な出来事に幾度となく直面すると思いますが、常にこの学びを忘れずに、取り組んで参りたいと考えています。

2014年5月26日月曜日

超高齢社会の一風景

私には一人暮らしの祖母がいます。一人暮らしの高齢者というと、穏やかな日々、または寂しい生活を想像しがちですが、私の祖母は毎日とても忙しく過ごしています。定年に近づいてきた3人の子供達は、子育てや仕事の慌ただしさから遠ざかり時間ができたためか、なにかにつけて祖母を外へと連れ出します。8人の孫は、結婚して子供ができたのもいて、誕生日や七五三に祖母を連れ出します。私もそんな孫の一人で、たまに帰ると祖母の家に立ち寄り、食事へと連れ出します。(ごちそうをおごってもらうのですが)

そんな忙しい祖母も90歳を超えてさすがに足腰が弱ってきたようです。たまに足を痛めると外出が難儀になります。

家族間のコミュニケーションツールはもっぱら電話です。祖母も耳は良く聞こえ、頭もしっかりしているので、電話での会話は問題ないです。メールやインターネットも使えるようにならないと、とは言っていますが、携帯電話の操作もままならない機械音痴ですからさすがに難しいとも言っています。電話は私の実家にも良く掛かってきますし、まさにライフラインです。

祖母の家の向かいには床屋さんがあって、近所付き合いはそれこそ何十年にもなります。よくおかずや食材を届けてくれる気遣いに助かっています。もし祖母になにかがあったとき、真っ先に気づくのは向かいの床屋さんかも知れません。


祖母の家ではNHKが一日中ついています。時間があれば一日中NHKを観ていますから、世の中の出来事について祖母は私よりも遥かに詳しいですし、情報が早いです。朝の起床から就寝までNHKは祖母にとって時を告げる時計であり、世の中と祖母の家をつなぐ社会への窓であり、衰えぬ知的好奇心を満たしてくれる存在です。

2014年2月16日日曜日

京都マラソン完走(感想)


幸運にも京都マラソンに参加することができました。人生初マラソンは、桂川や嵯峨野、広沢池などの自然を感じながら、京の都の世界遺産を巡る魅力的なコースでのデビューでした。魅力的な一方で京都マラソンのコースは高低差が大きいことも言われており、特に中間点を過ぎたところの狐坂は相当過酷な上り坂でした。私はというとろくな練習もせず、マラソンがどんなものかも分からずに参加してしまったので、ペース配分は見事に誤り、後半の競技はマラソンではなく競歩になってしまいました。ラップも見ての通り、25キロ以降にがくっとペースが下がっています。


あとになって調べてみると、これは初心者が最も陥りやすい「30キロの壁」とか「35キロの壁」と呼ばれるものらしいです。この壁の理由はいくつか考えられるらしく、(1)エネルギー切れ(2)水分不足(3)ペース配分の誤り、と言ったものが挙げられます。私の場合は、完全に(3)でした。私のような初心者は1万人を超える参加者とそれ以上に沿道に集まる応援の方々に影響されて、つい気分が高揚し、最初のペースが速くなってしまうのです。マラソンは、当初思っていたほどには心肺に負担がかかるものではなく、それもあってか最初は快調に走っていました。しかし、ペースを早めすぎると、ある時点から急激に足が動かなくなります。この感覚は面白いほど良く分かりました。それまで周りを抜かす勢いで走っていたのが、気づくと周りにどんどん抜かされていくのです。「あれ?オカシイゾ」と思った時には手遅れで、状況は悪化するばかり、ついには歩かざるを得なくなってしまいました。これはペースが速すぎると身体が「グリコーゲン切れ」になり、血中の乳酸処理のスピードが追いつかなくなり「筋肉に乳酸がたまる」状態となります。乳酸が一定をこすと、筋肉が動かなくなってしまうのです。NHKのサイトにメカニズムが紹介されていましたので、詳細を知りたい方はリンクをご覧ください。

NHK「みんなで科学 ラボラジオ」
http://www.nhk.or.jp/laboradio/report/20120716_02.html

完走後は足が全く動かず、その後の数日は散々でしたが、当日の沿道の沢山の方の応援はあたかも自分がオリンピックのような大舞台の主役となって走っているようで感動的でした。あのような感覚は、通常ごく限られたアスリートしか味わえないものですが、マラソンは市民のだれもが主役になれるスポーツです。家族を応援したり、応援されたりという姿はみていてとても微笑ましく思いました。全力で応援する側になるのもまた良いものです。かなりきつかったことは確かですが、次はしっかりと準備して挑戦したいと思いました。

2013年5月3日金曜日

高槻JAZZ STREET2013



高槻JAZZ STREET2013(http://www.0726.info)に参加してきました。このイベントは高槻の街中にある沢山の会場で行われるジャズライブです。最大の特徴は、ボランティアによって、企画運営されていること。イベントの運営資金は、毎年作成するオリジナルTシャツの売上、発行するパンフレットの広告収入、協賛金、寄付・募金などによって支えられています。参加するのは初めてでしたが、ボランティアの運営らしい手作り感がありながら、これだけ大規模のイベントを成功させるのは並大抵ではないと感じました。参加するミュージシャンは、アマチュアからセミプロ、プロまで様々で、一部の特別ゲストを除きボランティアでの演奏です。なにより、公園やイベントホールのみならず教会、神社、駅前、カフェ、百貨店の屋上と街中の至る所が会場になっており、朝から晩まで一日中楽しめました。会場によっては、飲食物やイベントグッズを提供しており、手作り品の青空販売しているクラフトマーケットもあったりと、一つ一つの会場に工夫がこらされていました。

足りないのは優れたアイデアであってお金ではないと思います。高槻JAZZ STREETの予算規模は20百万円だそうです。正直社員1人の会社でも調達可能な金額といえます。とはいえこの規模のセンスにあふれたイベントは20百万円集めても簡単にはできないです。もちろん、このイベントは年に一回開催される「お祭り」であって、だからこそボランティアでの運営ながら、ここまでクオリティの高い企画に仕上げることができたのだろうと思います。しかし、これまでのイベントを15年も続けてきた市民の底力には、大いなる可能性を感じました。地域を盛り上げる取り組みに進んで労力やアイデアを出し合う市民が数多くいます。「楽しい」「面白い」「ワクワクする」取り組みは、自然と人が集まるものです。そんなアイデアと市民のパワーを社会や組織の運営に生かす道は必ずあるはずです。年に一度のイベントも10年続けば、もはや単発のイベントではないのです。「お祭り」というと非日常の私たちの普段の生活からは切り離された付随的な印象を受けますが、毎年連綿と続けられる「お祭り」に集まる市民パワーは、私たちの社会を動かす原動力なのだと感じました



2013年3月24日日曜日

スーツと社会貢献


今日はスーツで勝負をしている原ちゃんのスーツ講座in天満でした。

今日気づいたこと。

①同時代の人が共有する社会的課題の認識は必ずあって、それは新聞などのメディアでよく取り上げられる自分たちも認識している課題

②メディアはそれを政治的課題として、行政や政府に解決を求めるけれど、じつは解決策はあらゆる分野に求められるべきもの。

③メディアがそうした課題を政治問題に帰着するのは、それが第三の権力としての役割だから。一企業一個人が責任を負ってたとしても、それを糾弾するのはメディアの役割を逸脱する。

④メディアに糾弾されないとはいえ、課題解決に責任を感じる企業や個人はたくさんいて、それぞれ動き出している。

それに気づいたのは原くんの「スーツを通じて、人と人がつながったり、コミュニティができたり、途上国の発展に貢献できたら良い」という想いを語っていたから。社会の不公正や不条理に疑問を感じる想いやそれに伴う行動は否定できない。

「スーツを通じて世界を変えていくんだ」くらいの選択と集中がないと、なかなか人は動かないよね。

2013年3月17日日曜日

島根と公共事業



友人を訪ねて島根に行ってきた。かれは国土交通省からの出向で県の道路整備を担当している。
島根で感じたことを書き残しておこうと思う。

「コンクリートから人へ」というスローガンが民主党政権の初期に盛んに喧伝された。私も、共感を覚えなかったと言えば嘘になる。しかし、実際の政権運営がたどった道のりと同じく、このスローガンはナイーブで脆く崩れやすいものだということが、短い滞在の中で感じとることができた


(1)根強い公共事業へのニーズ
地元ではコンクリートに対する需要には根強いものがある。実際問題、未整備の道路もあるし、道路は生活を便利にする。都市へのアクセスが短縮されるし、隣町へも行きやすくなる。新しい道路を幾つか走ったが、ワクワクするし気持ちがいい。島根の風景は当たり前だが東京と全く異なる。海(宍道湖)と山に囲まれ、大自然を縫うように整備されているのが道路である。自然が大半を占めていて、人知の及ぶ地域は一部なのである。当然、自然の力はたくましく、公共事業は人が自然と共生し快適に暮らしていくためには欠かせない。

(2)雇用を生み、活気をもたらす公共事業
道路は地元に仕事を提供し、人の生活を仕事の提供で支える。インフラづくりは技術屋のロマンであり、自然風景に溶け込みながらも雄大に構えている陸橋もまた自然に負けるとも劣らない美しさである。町中に点在する道路整備の工事現場は、時間がゆっくり流れのんびりとした地方都市で、人が生き生きと生活している証だ。漁港が活気あふれるように、重機が活躍する工事現場も活気がある。島根で見かけた公共工事の工事現場は、どれもなぜか明るく活気があるように感じた。東京でみかける工事現場はどこか薄暗く、人目を避けるようにしてあるが、地方の現場は逆である。インフラを求める人々の気持ちが理解できたような気がした。都会に住んでいる自分にとって便利は当たり前であったが島根は違った。なにもないところに道路を切り開くというような、先進性、将来性を感じた。

(3)理にかなう公共工事の誘致
地方自治体で国の財源を充てにして、開発を進めようとする試みは至極真っ当なものだ。いくら国の財政が厳しいとはいっても、財源を引っ張ってくることで生活が便利になり、仕事が生まれ、まちが活気づくのであるから、そのために一生懸命取り組むことに何の後ろめたさもない。地方の利害関係を代表する地方自治体にとっては、地域の発展と安定のためにも、公共事業は不可欠である。


こうした点をふまえると「コンクリートから人へ」というスローガンがとてもナイーブな主張に聞こえてくる。人々は「コンクリート」に、地方の発展と生活の充足、夢やロマンといった熱い想い、活気、といった様々な想いを託しているのである。あえて政治家が「コンクリートから人へ」というスローガンを掲げるのであれば、その対案はそういう人々の想い、感情に応えるものでなくてはならない。
そもそも、コンクリートと人は対立項ではない。コンクリートに金をかけていて人が育たないことはなく、むしろコンクリートが仕事をもたらし人を育てているという面もあるのではないだろうか。インフラを求めるあまり教育がないがしろになっていることもない。それらは別物なのである。

コンクリートを希求する人々の想いに応えつつ、時代が求めるシフトチェンジを目指すにはどうしたら良いか。友人からは最近のトレンドとして震災、災害対策、特に原発対策があがっているときいた。原発事故が起こった際の避難経路を確保するための道路整備である。道路は人の生活、命を守るためにある。なぜ道を作るのか。なぜ人は道路を求めるのか。その本質を見つめ直す必要性を感じた滞在だった。

2013年2月11日月曜日

寺と学問、アート




「この日の学校in 京都」終了。森田真生先輩(http://choreographlife.jp)に参加費を献上してきた。会場となっていた法然院という場が新鮮だった。

ここ何度か観光地化された京都の寺院を観てきて、あんな形でアミューズメントパークとして寺院を後世に残していくのも一つの戦略だけど、そう出来ない寺院は別の戦略を取らなきゃならないんだろうと思ってた。


一つの解が今日の法然院(
http://www.honen-in.jp)にあった。それはアートや学問の受け皿としての寺院。寺院は何百年も前から、戦乱期も含めて、長い間文化や学問の守護者であった。これからもそうであり続けなければならない。それは、仏教学や仏教文化という狭い意味ではなく、広く捉えなおされなくてはならない。

寺院は宗教的空間として、人間の苦楽、生死を受け止めてきた。であるならば、葬式をする場所以上の意味合いを持たせることができるとおもう。


法然院の廊下には、書物がぎっしり詰まった本棚がおかれ、京大の哲学者をはじめとした「教養人」の文章が引き伸ばされて展示してあった。学問の守護者たる寺の表明のように私の眼には映った。


法然院のwebサイトにも「法然院サンガ」(http://www.honen-in.jp/HONEN-IN-N-J.html#A)という題名でその想いが綴られている。貫主の言葉を引用しておこう。



私は、寺は、いわゆる布教活動や先祖供養の場としてだけでなく、社会的役割を離れた個人の出会いの場、アーティストを育む空間、地域活動の拠点など、様々な役割を果たしてゆくことができると考えております。法然院には、皆様方の日常とは違った時間が流れていると思います。特に念佛を唱えていただかなくとも、当院に集われる皆様方が、普段とは違う自分を発見していただいたり、○○会社の社員としてではなく、一つのいのちとして他のいのちとのかかわり方を見つめ直していただければ、誠に幸いでございます。


2013年1月6日日曜日

富山〜金沢 Toyama and Kanazawa


年明けの休日を利用して、教員をしている富山の友人に会いにいった。
弾丸旅行で観光もせず、友人に会いにいってただ飲むだけであったが、
彼の秘めたる想いや悩みをきくことができ、とても有意義な旅行であった。
悩んでいない人なんていないのだ。

帰りに途中下車をして金沢の21世紀美術館(http://www.kanazawa21.jp)を訪ねた。
企画展「ス・ドホパーフェクトホーム」(http://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=19&d=1398)
は無論、その世界観に圧倒されるばかりであったが、
一方で面白かったのが、美術館という空間の使われ方である。

21世紀美術館は金沢という街の「学校の美術室」であった。
学校における美術室が、生徒の作品が制作され、展示され、生徒の芸術観
を養う場であるように、この美術館も地域の人々の作品が展示され、
制作され、様々な芸術活動を支援する場として機能していた。
地下の広々とした空間に、地域のあらゆる学校から集められた生徒の
作品が展示されていて、圧倒された。

全国に有名な美術館だけに、観光客も多いのだと思うが、
それ以上に地域の人々に愛される美術館という印象だった。


On weekend, I went to Toyama where my friend lives and works as a teacher.
It was a short trip so just to meet him and drink together was the only aim of the trip.
We shared our passion and worries. There is no one who don't have worries.

On my way back to Kyoto, I stopped at Kanazawa to visit 21st museum
(http://www.kanazawa21.jp).  It was impressive to see their exhibition by
professional artists but I was also impressed by an exhibition of works by
amateur artists such as students and elderly people who lives in the community.

Museum is used as a space for community and it fosters artistic activities
in local community. Many visitors might come to see the museum but also
local people seem to love and visit the building frequently.

2012年12月31日月曜日

Diamond Fuji


2013年の初日の出は、友人のドライブに便乗して山梨県「日出づる里」(http://www.town.fujikawa.yamanashi.jp/kanko/shizen/diamond.html)にてダイヤモンド富士を拝む。身延山「久遠寺」(http://www.kuonji.jp)に初詣、みはらしの丘「みたまの湯」(http://www.mitamanoyu.jp)にて初湯。

ついでに2013年の抱負を箇条書きでまとめてみた。


What I want to achieve in 2013
Know Japan: Preparation for going abroad

#1 Launching ESG in Osaka

#2 Traveling around the West

#3 Getting over 100 score in TOEFL

#4 Enjoying arts and life in Kyoto
  
#5 Building a strong body and tough spirit

2012年12月23日日曜日

Art site Naoshima


休日を利用して瀬戸内海の直島に行ってきた。直島は「現代アートの島」として世界に広く知られるようになった香川県の小島である。「ベネッセアートサイト直島」(http://www.benesse-artsite.jp)のWebサイトではベネッセホールディングスと福武財団(http://www.fukutake.or.jp/art/)が中心となって運営するアートプロジェクトの全貌を知ることができる。直島が「現代アートの島」として知られるようになったきっかけは、80年代福武書店(現ベネッセコーポレーション)の創業者福武哲彦と当時の直島町町長が「直島を文化的な場所にしたい」という想いで意気投合したことに始まる。92年にはホテル、美術館が完成、当初は美術館施設内での常設展示と企画展というよくある運営であったが、徐々に本村集落の古民家を利用した「家プロジェクト」など、自然の風景、地域の土地柄に溶け込むようなアートプロジェクトを島の各地で展開していく。このプロジェクトは、直島だけでなく豊島、犬島など他の島々での活動にも幅を広げている。

詳しいアート活動の内容は他のサイトに譲るとして、私が関心があるのは企業活動が文化活動、地域活性に与える貢献についてである。多くの企業がCSRなどと称して、社会貢献活動に取り組んでいるのはよく知られているが、ベネッセ×直島ほどに成功を収めている例はそれほど多くない。

なぜ成功できたのか。地域活性、文化振興のために美術館施設を建築することは各地の自治体でよくある話だが、直島がユニークな地位を獲得できたのは、私が考えるにベネッセの関与だからこそという点が大きいのではないかと思う。

ベネッセコーポレーション(ベネッセHD:http://www.benesse-hd.co.jp/ja/)は、「たまごクラブ」「ひよこクラブ」といた育児雑誌や通信添削の「こどもちゃれんじ」「進研ゼミ」で広く全国に名前を知られる教育出版会社である。子供や学生の頃にお世話になった人も多いだろう。ベネッセは東証一部上場の大企業であるが、本社が岡山県岡山市にあると知ったのは私も最近のことで、地元の人ならともかく、多くの人は知らないのではないだろうか。「Benesse=よく生きる」を企業理念とし、1955年の創業から当社の圧倒的主軸である教育だけでなく、育児や介護といった一人一人の生活に関わる分野へ積極に展開している。

ベネッセは当初の美術館建設だけでなく、その後も継続して直島のアートプロジェクトを支援し続けており、時間の経過と活動の積み重ねともに直島の魅力は増していくことになった。その本質として「既成の概念にとらわれない」=「なんだかよくわからない」ものであった現代アート作品が、心休まる自然の海辺の風景や素朴な古民家の点在する集落に溶け込んでいる今日の風景は、それそのものがアートへの静かな問いかけであり、それは、現代アートという「異質物」が直島という地域になじんでいくプロセスがあって初めて生まれる風景である。

ベネッセというと単なる教育の会社と思ってしまいがちだが、「Benesse=よく生きる」という企業理念にも端的に示されているように、「一人一人の人間味豊かな生き方の実現を支援する」会社という自己定義をもっているからこそ、このような息の長い活動ができたのではないだろうか。

私はまだ直島しか訪れたことがないので、別の季節を狙って、他の島々も訪れて観たいと思っている。



2012年11月25日日曜日

京都(!)転勤


ご報告 皆様には直接ご連絡さしあげたかったのですが、取り急ぎこちらにてご連絡します。 このたび勤務先より辞令を受けまして、転勤になりました。次の勤務地は、京都(!)です。東京を離れるのは少し寂しいですが、新天地にて研鑽して参りますので引き続き皆様どうぞよろしくお願いします。(11月9日


秋も深まる金曜日、勤務先より京都への転勤の辞令を受けた。東京〜横浜から離れたことのない自分にとってはちょっとした人生の節目である。転勤にあたっては多くの同僚、友人から激励の言葉をいただき大変励みになった。

自分が京都で働くことになるとは、月並みな言葉だが、全く予期しなかったことだ。ただ、それは可能性がゼロだったというわけではなくて、さいころで6の目が続けて3回出たとか、可能性としてあるにはあったが実際出ると驚くような感覚だった。麻雀やトランプゲームで「あー、ここできたか」というあの感じと似ている。まるで自分がギャンブルに参加していて、勝って自分に流れが回ってきた(吉か凶かわからない)と思う瞬間かもしれない。辞令を受けたその時は、「京都」というカードを引いた瞬間である。

同じことの積み重ねで退屈に思える毎日にも、「カードを引いた瞬間」は必ず訪れる。その瞬間というのは文字で表すと(!)だろうか。自分はそうした瞬間ひとつひとつを大事にしたい。それは驚き、ひらめき、感動、ショック、落胆、一目惚れ、歓喜、など様々な感情を伴っている。その感情が、言葉となり行動となり、周りの共感を呼び、色々なものを巻き込む起点となる。(!)の瞬間は、何かがはじまる起点なのだ。

引っ越しも終わり26日は異動先への初出勤である。はたして京都(!)は自分にとってどんなことへの起点となるのだろうか。


2012年11月18日日曜日

KNOW NO LIMIT 2012


J-WORK OUT (http://j-workout.com/index.html) の主催する脊髄損傷者達による歩行披露イベント、KNOW THE LIMIT 2012 にボランティアとして参加してきた。このイベントは、自己や先天性の障害で歩行ができないと宣告された脊髄損傷者の方々が、日頃のトレーニングの成果を披露するイベント。イベントで歩行を披露する主役達はもちろん、イベントを指揮する方々、もしくはイベントを支える方々が、日頃の不便を乗り越え、かっこ良く働かれている姿が印象的だった。また企業出展ブースで紹介されていた次世代車いすは「クール」そのものだった。

2012年9月23日日曜日

OFF to 軽井沢


毎年、秋に仲間と軽井沢に行くのが恒例になっている。軽井沢のハイシーズンは夏で、秋も9月下旬ともなると肌寒い。ただ、夏は夏で皆休みの予定を入れていて忙しいし、軽井沢も人が多くてにぎやかなので、自然と毎年この時期に集まることになっている。スポーツで汗を流したり、ちょっと美術館へ遠出をしたり、食材を買ってきて別荘で料理するなど、楽しいひとときを過ごしている。それぞれが違う道を進んでいて、話を聞いているとまるで自分が何人もの人生を同時に経験しているようで、それが何よりも楽しい。一人一人を取り巻く環境が変わっても、集まれるといいなと思う。

2012年8月12日日曜日

富岡八幡宮大例祭


職場のある深川・門前仲町の三年に一度の一大イベントであり、江戸三大祭りの一つである富岡八幡宮例大祭に神輿の担ぎ手として参加した。横浜のニュータウンで育った私にとっては、神輿を担ぐのは初めての経験であったし、下町の熱気を感じることができた。去年は震災の影響で祭りを見合わせており、それもあってか今年は非常に盛り上がったようだ。

このお祭りは別名「水掛け祭り」と呼ばれている。神輿は永代通りをメインに江東区、中央区を一周して永代橋を渡って富岡八幡宮まで戻ってくるのだが、沿道に並んだ見学の人々が、バケツやホースをもって、神輿と担ぎ手に水をかけようと待ち構えているのだ。そのため、担いでいる間はずっとびしょぬれである。ただ、この日は真夏の晴天で水掛けは非常に気持ちがよかった。天気がよかったが、日中一瞬だが雨がぱらぱらと降ってきて、「神様も水掛けに参加したいんだな」なんて思ったものだ。

はっぴに鉢巻き姿は爽快で、神輿は前々から聞いていた通りずっしりと重く、肩は真っ赤になった。足も痛くなったが、地元の方々に混じって参加できたことは忘れがたい貴重な経験だった。


2012年7月29日日曜日

Fly to Myanmar: Just the way you are


ミャンマー滞在レポート
※本レポートは、20127月現在の情報によるものです


本稿は、筆者が2012724日〜28日のミャンマー滞在時に見聞した出来事をもとに、その経験や印象をまとめたものです。

過熱する「ミャンマー詣で」

日本人の「ミャンマー詣で」が過熱している。私の乗ったベトナム航空ハノイ経由ヤンゴン行きでも、日本人ビジネスマンの姿が目立って多く、機内で「これも何かの縁ですから」と名刺交換が行われるほどであった。日本からミャンマー入りする際は、このほかバンコクを経由する主要路線の他に、今年に入ってANAも直通便を運行させる計画を発表している。日本語が堪能な現地ガイドのヤタナ氏によれば「欧米人は去年(2011年)から、日本人は今年に入ってから目立って増えてきた」という。政府高官も足しげくミャンマーを訪れるようになった。201112月には、玄葉外務大臣が外務大臣としては9年ぶりに訪緬。私の滞在中には、JBIC(国際協力銀行)Meetingが行われており、ヤンゴンの東23キロにあるティラワ地区における日本企業団による開発受注交渉のため訪れた参議院議員の仙谷由人氏や内閣官房参与の前田匡史氏の姿もあった。

急速に変化する政治情勢

政府高官から民間のビジネスパーソンまでが、こぞってミャンマー入りをする。その背景には、この国の政治事情の急速な変化がある。2011年テイン・セイン大統領が就任して12年の急変だ。現地を訪れると政治の変化がもたらした変化を目にすることができる。ヤンゴン国際空港は2007年に改築され、かなり近代的な装いだ。アウン・サン・スー・チー氏の自宅前も、201111月の解放前は通行が禁止され、塀壁が崩れてぼろぼろだったそうだが、最近は各国政府要人が訪問するためか、私の訪問時はきれいに整備されていた。ミャンマーはASEAN議長国を初めて引き受けることが決まっており、為替レート統一のための管理変動相場制移行など対外的な整備が急速に進んでいる。それと同時に、国内の政治犯の解放や少数民族武装勢力との停戦措置といった人権問題の改善、中古車両の廃車許可および輸入許可の一部解禁など経済改革も進め、そうした動きが日本人をはじめとする外国人の訪問を加速させている。「それまでも軍事政権下とはいえ日本人訪問客はそれなりにいた。しかし、20079月の長井さん銃撃事件があってからは、極端に減った。ヤンゴン外語大学で日本語を学ぶ生徒は、英語、中国語に次いで3番目だが、その時期は少なかった。」と話すのは、外語大学出身の日本語ガイドのヤタナ氏だ。日本人と少しでも関わりのあるミャンマー人は誰もが、僧侶のデモ行進の取材中に制圧部隊の銃撃を受け亡くなった長井さんの事件を知っている。長井さんの事件後は、ビザの審査に職業を示すバウチャーの提出が加わるなど、ジャーナリストの入国が難しくなった。長井さんの事件を話すミャンマー人の誰もが残念な表情を浮かべていた。それだけ、あの事件の影響は大きかったと言える。それだけに昨今の民主化の進展は、日本とミャンマーの関係を強化するものとして期待されている。

期待の高まる2015年総選挙

ミャンマーの政治情勢を見守る上で、一つのマイルストーンとなるのが2015年の総選挙である。20124月、45選挙区で実施された補欠選挙において,アウン・サン・スー・チー氏率いる国民民主連盟(NLD)が43議席を獲得、大勝利をおさめたことは記憶に新しいが、この議席数は全体のわずか6%強にすぎない。そして国民の人気を集めるNLDが国会議席の過半数をとる可能性があるのが2015年の総選挙なのである。パガンで出会った青年は「ミャンマーの人々は皆アウン・サン・スー・チー氏を尊敬している」と語っていた。その青年の家族はミャンマーの伝統工芸品である漆器を手作りで生産している職人の一家であり、自宅は電気も引いていないようなつつましい家であったが、壁にはアウン・サン・スー・チー氏とその父であるアウン・サン将軍の肖像が掲げられていた。青年の兄は「今の政府は良くない。だけど、変えられるのはあと3年後だ。私たちは2015年の総選挙まで待つしかない。」と語っていた。

日本中古車の「自動車ミュージアム」

首都ヤンゴンを走る自動車は、日本車が80%近くを占める。そのほとんどが、中古車だ。驚くのは、1980年代製の日産サニーから2010年代製のホンダインサイトまで現役という年式の幅広さだ。なかには1960~70年代製と思われる日野のボンネットトラックまで走っていて、さながら日本車の動くミュージアムとなっている。ただ、「ヤンゴンに自動車が増えてきたのもここ1年のこととのこと」とのことで、201112月まで禁止されていた中古車両の廃車許可が下り、街を走る車両が格段に新しくなった上、それに伴う中古車両の輸入許可によって、いままで一台数千万円したものが、数百万円台に下がってきたからだという。日本中古車輸入販売会社のソウ氏によれば、最近人気の車種はトヨタのProboxのようなワゴンタイプのものだそうだ。無論、大きな荷物も運べる実用性が人気の理由だ。ミャンマーで日本車が好まれる理由は、必ずしも日本が好きと言った理由ではなく、丈夫で壊れにくく長持ちする点だという。ミャンマーにおいて自動車の重要な機能は、実用性ならびに何十年も運転できる耐久性である。であるから中古車市場とはいえほとんどが日本製やドイツ製で、アメリカ車などは全く見向きもされないそうだ。安くなってきたとはいえ、平均月給が1万円にも満たない庶民にとって自動車は高嶺の花であるものの、一部の都市富裕層には着実に浸透していることは確かだ。

自動車の普及とともに必要となるインフラ整備

ヤンゴン市内の富裕層には生活の一部となりつつある自動車だが、自動車を取り巻く環境インフラには課題がある。ヤンゴンでiPhoneをはじめとするApple製品の修理事業を立ち上げた起業家の若者の車に乗せてもらう機会があったが、彼の愛車のトヨタのハリアーは、運転席をのぞいて座席が取り除かれていた。聞くと道路を走行中に浸水し、座席が水浸しとなってしまったそうだ。私の滞在中ヤンゴンは雨季であり、毎日土砂降りの降水があった。市内の道路の一部で冠水しており、そういった場所に不用意にも入り込んでしまったのだという。ヤンゴンは近代的な都市であるが、一部そういった道路がそのままであることは、毎年記録的な雨量のある都市とはいえ、インフラ未整備の状況が垣間見られた出来事であった。ヤンゴンにおいては、「この数ヶ月で目に見えるほど自動車の台数が増えた」という状況であり、より経済改革とそれに伴う経済発展が進むにつれ、今後も自動車台数は急速に増えることが予想され、それに伴う道路環境の悪化が予想される。また、ミャンマーは停電が日常茶飯事であり、水道水も雨季は濁っている。道路およびその他のインフラを含め、生活のライフライン全般について整備の必要性を感じる機会が多かった。

日本企業の進出状況と課題

BTMUヤンゴン駐在員事務所があるSedona Hotel内のBusiness Apartmentには、JETROや双日、豊田通商といった総合商社に加え、川崎重工、千代田建設、清水建設、NTT DATAといったインフラ建設業者が入居するほか、4月にはみずほコーポレート銀行も駐在員事務所を設けた。日本企業のミャンマー進出が加速する中、いち早く現地事務所の開設にふみきった日本中古車貿易会社のオフィスにミャンマー人スタッフのソウ氏を訪ねた。当社は日本の中古車を世界各国のディーラー向けに輸出する中古車輸出販売業であり、自社開発のシステムによるカスタマー・サポートを強みとする企業である。オフィスは、ヤンゴンでも外資系企が多く集積するBahan地区の商業ビルの9階(8th floor)にある。窓からは黄金色に輝くシュエタゴン・パヤーが見渡せ、国際空港や官公庁の集積するダウンタウンエリアへのアクセスも近い好印象の立地である。オフィスは、従業員の住居も兼ねており、接客スペースには大きなソファーがおかれているほか、4台あるPC机はモニターが可変できる対面式になっており、同じ画面を見ながら、職員と顧客とが交渉できるように整備されていた。

オフィス開設の目的は、強みであるカスタマー・サポートの更なる強化だ。敬虔な仏教徒で、温和かつ誠実な印象のミャンマー人だが、ソウ氏の言葉を借りれば「ミャンマー人も文句が言いたい」のだそうだ。それも直接顔をあわせて、ミャンマー人相手に苦情を言いたいのだという。ミャンマー人の気性は意外に激しい。柔和な表情と気高い雰囲気を備えたアウンサンスーチー氏を思い浮かべていただきたいが、仏教徒としての穏やかさがある一方で言うべきことは主張する大陸系の性格の持ち主が多い。日本人のイメージしやすいところでは韓国人の性格に似たところがあると言えるかもしれない。それまでも当社は自社のシステムを通じて、車両を購入する顧客へ現地語スタッフを通じたダイレクトかつ迅速な情報提供を行ってきたが、更なる顧客接点の強化のためには、現地での顔を合わせたサポートが有益であることは言うまでもないだろう。

より顧客の要望に近づけるため、当社は政治情勢が不透明な現段階でのミャンマー事務所の開設に至っている。現段階での事務所開設は日本企業にとってかなり早い決断であると言えるが、ミャンマー事務所開設を急いだ背景には、同国を取り巻くスピード変化に対する危機感がある。「中国や韓国の企業は決断のスピードが速い。チャンスと思えばすぐに金を出すし、事務所等も展開する。ダメだと思えばすぐに撤退の決断をする。日本企業はなかなか動かない。」(ソウ氏)ミャンマーでは日本車が人気であり、その点では当社に一日の長があるとはいえ「業界の競争は激しさを増している」のが実情だと言う。

「人材不足」

日本企業のスピード不足を指摘するソウ氏の言葉には実感がこもっていたが、それには現地の採用を担当する彼の焦りが垣間見える。その焦りとは、人材確保がままならないことへの焦りだ。平均年齢が27歳と、若者層の人口が豊富なミャンマーだが、その人口と裏腹に「人材不足」は深刻である。ソウ氏の友人によれば実に「ミャンマーの大学に進学する若者の75%が海外留学する」という。若者の海外離れが警鐘されている日本人にとってはうらやましい限りに思えるが、事情はそんなに甘くはない。というのも、若者の海外留学の背景には、自国での教育・就業機会の不足と、ミャンマー政府の抑圧があるからだ。有能で高学歴な若者ほど、自国の政治情勢を嫌い、母国へ戻って来ないケースが多い。畢竟、外資系企業に求められるような2、3カ国語を操れる人材や、ITスキル、文書作成、経理などの能力を備えた人材の確保が難しくなる。「民主化の進展で、本国に戻る人間も増え、この状況も変わりつつある」とのことだが、海外からの進出企業も増加が見込まれる中、当面この人材不足は続きそうだ。そしてこの人材不足は、単純に給料を上げたからといって、確保できるものではなく、供給人数の絶対的な不足に起因するものであるから、これから進出を計画している日本企業にとって大きな足かせになるに違いないであろう。

ミャンマーで感じた「若さ」と「未熟さ」

ミャンマーは「若い」国であった。道ゆく人々も、ホテルやスーパーで働いている従業員も、26歳の私より若い人が多かった。人だけでなく、社会を支えるインフラや商店に並べられた電化製品、日用品、そしてそれらを取り巻くサービスも、未整備で、荒削りで、どことなく「若さ」を感じるものが多かった。ヤンゴンで私の滞在したYUZANA HOTELは、スタンダードな中級ホテルであったが、ホテルにはYUZANA DEPARTMENTというちょっとしたショッピングのできる店舗が併設されていた。「田舎の地元百貨店」といったおもむきだったが、目についたのが店員の多さとその就業態度である。各売り場、各通路に20歳前後の店員が配置されているのだが、接客するでもなくただ座っているか仲の良い店員同士で集まって話しているだけであった。中には熱心に読書に励む女性もいたが、それも売り場では違和感がある。どの店員も制服を着用しているので確かに「勤務はしている」のではあるが、「仕事はしていない」といった印象だ。若い店員が多く、さぼっているというよりは「仕事の仕方がわからない」というようにも見受けられた。ヤンゴンには近代的なショッピングモールもあり、その店員は「普通に」働いていただけに、一概にすべてこのような状況とは言えないのだが、印象的な光景だった。「人材不足」と言われる一方でのこの「人余り」とも言えるこの状況は、ミャンマーの「若さ」「未熟さ」を象徴している。

ミャンマーの将来を背負う若者達の夜

滞在中にヤンゴンのクラブを訪れる機会があり、自らビジネスを立ち上げた若者たちに出会うことができた。クラブ文化は世界共通で、ヤンゴンもナイト・クラブが盛況であり、富裕層の若者は毎週末こうしたクラブを訪れる。私が訪れたのは、ヤンゴンでも屈指の高級クラブであったが、アルコールに歌とダンスを楽しむ場である一方で、そこは若者の社交場として機能していた。彼らは、携帯電話で情報をやりとりしてクラブに集まるのだが、クラブでの彼らの行動は忙しい。ダンスもそこそこに、あちこち動き回って友人への挨拶周りをしていた。週末の夜に久々に会う友人と会話することは楽しいものだが、それに加えて彼らにとってはビジネスにつながるというメリットもある。ミャンマーは若い国であり、ありとあらゆる製品、サービスに発展の余地がある。私が出会った若者も若くして自ら会社を所有している人が多かった。そうした未発展の市場で、自らの会社を成長させていくチャンスは、人つながり、人的ネットワークから得られることが多い。そのため彼らはクラブであっても、つながりを維持する努力を怠らないのだ。そうした新規ビジネスを立ち上げている人間の多くが同世代であることも、若者の集まるクラブが社交の場となっているゆえんであろう。大音量のクラブミュージックが流れる建物の中で、そうした若い世代が次のミャンマー社会を担っていく可能性を大いに感じた。

ミャンマーで感じた「豊かさ」

意外な発見としては、ミャンマーの「豊かさ」を感じる機会が多かったことだ。無論、私が外国人であり、それなりのホテル、レストラン、訪問地を選択した結果、滞在中に途上国の「貧しさ」を感じなかったのであることは事実だが、東南アジアの最貧国の一つとして覚悟して行ったにしては、拍子抜けするほどであった。特筆すべきはミャンマーの文化である。街ゆく人々は男女問わず「ロンジー」と呼ばれる色とりどりの腰巻きを身につけており、欧米の服装になれた目にとって新鮮であった。女性や子供は、ほほに自然成分の日焼け止めつけている。仏教寺院では、一般の人々がお参りに訪れており、街では出家僧が托鉢に回る姿が見られるなど、仏教が日常生活にとけ込んでいる。確かに町中で売られている商品や食物は日本の磨き上げられた商品に比べると、ほこりを被っているようなものや、粗悪なものが多かった印象だが、そうしたモノの「貧しさ」以上に、ミャンマーの文化や生活、人間関係に「豊かさ」を感じることが多かった。

「発展途上国」とひとくくりにすることへの危惧

クラブで出会ったような一部の若者は、日本の若者より豊かな物質生活を謳歌していた。ミャンマーで手に入れようとすると今でも数百万円するような日本車を所有し、スマートフォンを駆使して自分の会社の経営を仕切っており、その姿は一時期日本でも話題になった六本木のITベンチャーの経営者たちを彷彿とさせる。経済指標の平均をとると、ミャンマーは日本に比べて遥かに貧しい国であるが、ミャンマー社会においても格差は存在しており、富裕層は先進国の生活並かそれ以上の生活をしているという見えない事実に気づかされた。その一方で、経済指標に表れているような「貧困」も明確に存在しているのがミャンマー社会である。私の滞在は主にヤンゴンというミャンマーでも第一の経済都市だったが、一部の日程で地方都市であるパガンにも滞在した。パガンは観光地であったため空港やホテルは整備されていたが、2階建て以上の建物は見当たらず、道路も街を貫く道路が舗装されているくらいであって、他は土ぼこりの立つ未舗装の道路である。外国人の持ち込む外貨はこちらでの貴重な現金収入源であって、道中何度か物売りの青年に出くわすことがあった。彼らの真剣なまなざしは、土産物売りの現金収入が彼らの生活にいかに重要なものかを物語っていた。こうした実情は現地に足を運んで初めて気づくことも多々ある。「途上国」の枠に限らず、あらゆる場面において、ひとくくりにして考えてしまうがために見落としてしまうことの危険性を感じた滞在であった。

日本の機会と貢献

最後に、日本はミャンマーといかなる関係を築くことができるかについて私見を述べたいと思う。まずは、ミャンマー=「発展途上国」「アジア最貧国」という色眼鏡を外すことだ。こうした色眼鏡を通していては、真の姿は見えて来ない。途上国への進出というと、ビジネスでは人件費削減のための工場設置、非営利活動では貧困にばかり焦点をおいた慈善活動といったものに安易に行き着いてしまいがちだ。しかし、私が見たミャンマーはそうした活動とは多少ずれているところがある。確かに、短期的には、工場を中国よりも人件費の安いと言われるミャンマーに移すことで生産コストの低減が図れるであろう、また「最貧国」ミャンマーの「貧困」に焦点を当てた援助活動も短期的には効果がある。しかしながら、ミャンマーにおいては、既にそうした課題への問題提起はなされているのではないか。国内の物価や海外の労務水準と比較し、ミャンマーの人件費が不当に安く据え置かれていることで、遅かれ早かれ人件費は上昇し、貧困から生じる公衆衛生の問題等も徐々に改善に向け動き出している。短期的な視点にとらわれず、長期的に見てなにが求められているのかを注意深く探って行くことが必要だ。ミャンマーは「若い」国であり「豊かさ」も備えている。日本企業が頭打ち感のある国内経済を脱して海外に新たな投資機会を求めている一方で、資金も技術も乏しいミャンマーは、資金、技術、就職機会の提供者を切実に希求している。日本から一段下がった「途上国」として捉えるのではなく、より対等な立場で、私たちになにが求められていて、どのような貢献ができるか、お互いがそうしたことを模索していく中で、両国の長期的な関係が築かれるはずである。

参考文献
2012「特集現地ルポ 過熱するミャンマー詣で」WEDGE8月号
2012根元敬・田辺寿夫「アウンサンスーチー」角川書店
2012土佐桂子・永井浩・毎日新聞外信部「新ビルマからの手紙」毎日新聞社

2012年4月22日日曜日

登山



気づいたときに時々山に登りにいく。登山とはいっても本格的なことはほとんどなくて、大抵が日帰りである。一人で行くことは滅多になくて大抵仲間を誘って行く。寒い冬を越えて暖かくなる4月に入ると行きたくてしょうがない。都会の喧噪を逃れて、自然に囲まれた環境におかれて、天気もよいとそれは至福の一時である。山頂で食べるカップヌードルと一杯のコーヒーはそれはとても美味しいものだ。

2012年3月25日日曜日

グラスルーツ・バックパッカー


やさと農場 in 茨城にて

この週末は、大学時代の仲間3人で「organic farm 暮らしの実験室」「やさと農場」(http://yasatofarm.exblog.jp/9559090/)を訪ねた。ソーセージ作りをした。のんびりとした農場の中で一日中遊んでとても幸せな気分だった。思わぬ出会いもあった。この農場は仲間の一人が何の関係もなく探し当てたのだが、農場のスタッフにもそれを支える人にもアイセックのメンバーがいたのだ。茨城県石岡市にも面白い試みをしている仲間がいたとは。そこで思い出したのが「グラスルーツバックパッカー」という言葉。下の文章は大学4年のときに書いたものだが、やさと農場にも、主体的に物事に取り組み、持続可能性を追求し、生き生きと活動している「グラスルーツバックパッカー」たちがいた。


社会を良くしようだとか、社会に何かしらのかたちで貢献したいと思うとき
「人が幸せに生きる」とはどういうことかを考える。
人の生き方は多様なあり方があるものだ。
ただ振り返って思うのは、内側から湧き出てくるような熱い想いに
突き動かされて行動しているときというのは幸せである。
誰しもそういう経験があるとは思うが自分を振り返れば、
中学、高校のときはテニスと文化祭活動だ。
一から自分で考え、自分の行動を決める。
高校を卒業してから過ごした浪人時代の一年間も充実したものだった。
それは、目的に向かって自分に必要なものは何で、そのためになにをすべきかを
自分自身で決めて行動したからである。
大学に入学して取り組んだアイセックにおいても、
ディレクターとして一年間の目標と行動計画を決め
それに向かって仲間とともに活動したから楽しかったのである。
人間はそうした、自助の心を持っているとき生き生きする。
たとえ人からの援助があったとしても、他人任せではなく
自分の人生を主体的に生きることが重要である。

私は事業経営に社会を変える強い可能性を感じている。
事業経営の最大の目的は、持続可能性の追求だと思っている。
事業が終わるときは、その会社が赤字になるとき、倒産するときであり、
そのときその事業は社会から必要とされていないということを意味する。
持続可能性を追求するとは、倒産させないことを単に意味するだけではない。
倒産させないということはすなわち、社会からの要請に応え続けるということである。
そうした事業経営の本質を表すのが財務諸表である。
損益計算書P/Lは、毎期の活動が社会の要請に応えているかを表す。
これで赤字が続くようだと、その事業は何かが足りない、何かを変えなければならない。
貸借対照表B/Sは、その事業の現在の状況を表す。
自己資本が積上っていれば、それは過去の経営の積み重ねの証であるし、
資産の構成や負債とのバランスは、その会社がいかなる形で事業を行っているかを
示している。
B/Sから生まれた売上がP/Lを通じて様々なステークホルダーに還元され、
最終的に利益がB/Sに積み上る。
そのキャッシュフローのダイナミクスが僕は好きだ。

僕はどんな事業も、持続可能性を追求しなければならないと思う。
その持続可能性とは金銭的な成功とは必ずしも一致しない。
しかし、「キャッシュフローが回っている」ことは何よりも大事である。

公共事業がしばし問題となるのは、その事業が投資に見合った事業なのか
持続可能性があるのかどうかが、不明瞭なまま、多額の国の財政が
投じられることがある点だ。
民間事業はその点は厳しい状況にある。
民間は事業が投資に見合わないと、収入がなくなる。
それは赤字を意味し、赤字はすぐに自分たちの身に降り掛かってくる。
民間事業はギブアンドテイクが基本である。
一方で、公共事業はその事業で収支をバランスする必要がないためしばし赤字である。
赤字を補填するだけの効果があるかどうかを、財務的な数字で測ることが難しい。

官は常に非対称の立場におかれている。
故に特権化する、腐敗する。
立場の非対称性がゆえにノーブレスオブリージュが求められる。
もしかしたら、官が相対化されていくのがこれからの世の中かもしれない。
地域分権が進み、行政サービスで政府を選ぶ時代になる。
地域と政府が分離した場合、ますますそうなる。

僕は官よりも民の立場で、
事業経営のプロフェッショナルとして、
社会に貢献する事業を世の中に送り出したい。

規模や利益の大小は関係ない。
社会の利益となる持続可能な事業であることが重要である。

小さくても、その事業に関わる人々全てが生き生きとしている状態。
それを生み出す企業家。
「グラスルーツ バックパッカー」

それは金儲けが目的ではないのは明らかだ。
明治の日本の礎を築いた経営者たち、
昭和の敗戦の焼け跡から世界第二位の経済大国へと日本をよみがえらせた経営者たち
彼らに非常に憧れる。

2012年1月1日日曜日

What I want to achieve in 2012


#1 Building English vocabulary
The first thing I want to do on weekend is to improve my language skill.
The goal is to get good scores in general tests.
TOEFL score 90-100 by taking tests twice in a year
TOEIC score 990 by taking a test once in a year


#2 Discussing issues and making outputs 
I continue to manage ESG discussions on every Sunday morning.
Also I continue to attend Jeff’s lesson on every Sunday afternoon.
The goal is to share ideas with people all over the world by uploading outputs online.


#3 Finding a partner to enjoy life together
You should stand alone first but you should also corporate with people.
Eat, Travel, Play and Study together with your best partner brightens our life.


#4 Hosting on Sekaimeshi project
I started Sekaimeshi project with a friend of mine last year. We eat world delicious foods in various restaurants in Tokyo.
The goal is to “Travel” every month totally in 12 countries and make crossover friends.


#5 Studying on “Principles of corporate finance”
I bought the book on my birthday in April. Many people around me recommend to try it.
The goal is to complete the textbook (11part, 34 chapters) with my colleagues.


#6 Making lifelong Friends
I enjoy my life with friends by playing tennis, golf, climbing mountains, riding a bicycle and so on.
Several times in a year I gonna play together with friends.


#7 Training to build a strong body
Strong body is needed to use the time more efficiently. On every weekend, I go on training to keep my body and mind in good condition.